「追儺」その形が神社に残っていて、花岡八幡宮では鬼が出され、「鬼やらい」の行事がある。
「豆まき」福は内、鬼は外と囃(はや)して、炒(い)った大豆を戸、障子に投げつけて鬼やらいをする。これは唐代の儀式が移されたもので、悪鬼邪霊(あくきじゃれい)を追い払う行事で、平安時代宮廷では十二月晦日に行われていたが、室町時代以後、節分の日に行われるようになった。
日本では「おに」は神の妖怪化(ようかいか)したもので、巨人ということである。年越しの夜にくるものには歓迎すべき分子と、おそろしい分子とがあった。それを神と鬼にわけて鬼を追儺の時に追い払う。
豆は鬼を打つために撤(ま)くのであるが、この地方に残る大豆による厄落しなどからして、次のような解釈もできる。豆は宮廷などでも、小豆(あずき)をもって手を洗う水のかわりに、古くから用いられていた。これは洗うというよりは、小豆に穢(けが)れを移すことで、節分の豆は小豆を用いなくなっているが、それで身を撫(な)でて、旧年の穢(けが)れを持って行かせようとした意義が、更に転移して、鬼の食物、鬼打ち豆という考えを生じたのではなかろうか。
「柊挿し(ひいらぎさし)」当地方では「タラノ木」(俗名、ダライギ)を家の出入口の上に横にして掛ける。これにより鬼が入って来るのを防ぐための意である。
「厄落し(やくおとし)」いろいろな方法で行われていたのが、節分の日に盛んにしたもので、当地では新しい年齢の数だけ、大豆を数(かぞ)えとり、紙に包み、身体をこすり、身の穢れを吸取らせ、人通りの多い辻に捨てて逃げかえる習慣がある。(神社の賽銭(さいせん)箱に入れる者があるがこれは間違いである)これは「厄落し」である。節分の晩に捨てる形式を取り行ったのである。悪い癖(くせ)などは、その豆に「○○売った」と言って癖をうつして捨てる。辻に捨てるのは、そこは通行人が多いので、誰かに拾ってもらえるということである。
節分といっても、今の若い人たちには何の感じも起こらないだろうが、それは立春の前夜で大年の晩である。(古くは人の年齢は数え年で、幼い頃は、大年の晩を過ごして本当に年齢を一つとったといわれていた。)節分を年越しと言っているように、小正月の前日を、十四日年越しともいう。昔は正月も、立春も同じように考えていたので、節分の晩は、ちょうど生活が新しくなる境目と考えられ、穢(けが)れを捨てたのである。
「厄払い」一般に男子の二十五・四十二才・女子の十九・三十三才を大厄とし、この年頃は、個人の生理上・心理上からみても心身の転換期であり、また社会的にみても重要な時期である。こうした重大な時期にさしかかるにあたって、「祈り」と「慎み」をもってこの前期を無事に乗りきろうと、年の夜に神詣(もうで)をして厄払いをうけている。鷲頭寺(じゅとうじ)・中宮・花岡八幡宮には当日参詣も多く、特に鷲頭寺(じゅとうじ)では、有志の篤志による福引で賑わっている。
「星祭り」年の夜は立春の前日で、年々の節目として、その年中幸福に過ごせるよう神仏の御加護を願い。氏神にお詣(まいり)し、御祈念してもらったり、寺院に参り御祈祷を受けたりする。
これが星祭りである。星とはその人の生まれた星をいい、陰陽道から出たものである。旧暦の時代には、節分は元日から七日までの間に当たることが多かったため、この日を迎えるに当たり、人々は身も心も清らかにして邪気(じゃき)を払い、幸せを願う新年にふさわしい行事だったのである。節分の行事は、明日から違った生活に入るためにするのではなく、そういう行事を行った結果、明日から新しい生活が始まるのだと、昔の人は思っているのである。
(資料) 追儺(ついな) 大晦日
追儺ト云ハ年中ノ悪気ヲ払フ心ナリ
文武天皇御宇ヨリ始ル、此年諸国ニ疫病アリ万民多ク死ス仍テ追儺ヲ行ハル
大舎人鬼ニナリテツトム四ツ目アルオソロシキ面ヲカヅキ手ニ鉾ヲモツ
陰陽師祭文ヲ持、南殿ノ辺ニテヨム。殿上人御殿ノ方ニ立テ、桃ノ弓、葦ノ矢ニテ其鬼ヲ追ヒ射ル、其鬼、仙花門ヨリ入テ東庭ヲヘテ瀧口ノ戸ニ出ル
今夜御前其外灯火ヲ多クトモス
○今世上ニ節分ニ煎豆ヲ舛ニ入、年徳神ヘ備ヘ神拝シテ 鬼ハ外福ハ内ト云テ明(あき)ノ方恵方ヨリ始メテ間(ま)コトニ打マク其後ニテ年ノ数ニ一ツ添テ豆ヲイタダク、万事何ヲ至シメテモ恵方ノ方ヘ向ク事デ
○鬼カ節分ノ夜アルクト云故煎豆ニテ鬼ノ目ヲ打ツブシ疫癘(えきれい)ヲ防クト申事追儺ノ余風ナルベシ
○厄落シト云テ京大阪ニ専ラ至ス事 節分ノ豆ヲ年ノ数ニ銭十二文紙ニ包、男ハ左ノ肩ヨリ身ヲ擦、女ハ右ノ肩ヨリナデ懐(ふところ)ノ内ヨリ身ヲナデテ下ニ落シ居ル内ニ、厄払トテ非人ノ者参リ其豆ヲ申受テ祝言ヲ申、沖ノ海ヘ払捨ルナド イロイロノ詞ヲ申事ニテ面白キ事ナリ
○又此豆ヲ除置、旅立ノ時其人ノ無事ヲ祝フ 尤此豆ハ祓ノ其ナリ京中ニテ至ス事ナリ