25 ひな祭(まつり)

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 ひな祭りは古来、男の五月の端午の節句に対して、女の子の成長を祝福する祝いとして、始まったのがこのひな祭りである。二月の節分には、福は内、鬼は外の豆まき行事をし、それが終わると町の人形店等では、おひな様の陳列が見られるようになる。祭りの形としては、三月三日に雛人形や、簞笥(たんす)・長持等の家具調度品の模型をかざり、桃の花・ひし餅・白酒などを供えて、女児の幸福を祈るものである。また三月節句、桃の節句ともいう。桃の花が三月にはまだ咲かず、四月に咲くこの地方では、一月遅らせて旧暦の三月、新暦の四月に行う家も多い。昔、三月は農事にとりかかる大切な季節である。そのため物忌み(ものいみ)や、禊(みそぎ)を行い、けがれを負った形代(かたしろ)を川や海に流す、神送りの行事であった。雛人形は、この形代を起源として考えられる。
 現代でもこの形は、広島県に伝わる送り雛や、松江地方に伝わる流し雛として行われている。遠く中国では重三(ちょうさん)(三月三日)や、上巳(じょうし)(三月初の巳の日)に川辺で飲食をし、詩歌を吟ずる風習があった。これが平安時代に日本に伝えられて宮中で行われた。
 このような日本古来のものと、中国の行事が混合して、室町時代から三月三日、雛人形をかざる行事が生まれた。この雛人形の起源は、平安時代の「ひいな」遊び(一対の男女の人形を中心としたままごと遊び)の人形といわれる。その後もこの人形は、貴族の家庭での遊び道具として使われていたが、江戸時代に入り三月節句に、一般でも使われるようになり、やがて両者が結びついて雛人形・雛祭りの語が生まれた。
 人形は、はじめは紙雛であったが、後、木彫りや、粘土製のものに彩色するようになり、衣装(いしょう)として金襴(きんらん)・錦(にしき)などの豪華(ごうか)なものも用いられた。また「立雛(たちびな)」のほか「座雛(すわりびな)」が現われ、雛段も三段・五段と高くなっていった。現存するものとしては、「寛永雛」「享保雛(きょうほびな)」「古今雛」などがある。このうち「古今雛」の形にならったものが、明治以後伝わっている。また「内裏(だいり)雛」のほか、三人官女・五人囃(ばやし)・随神(ずいしん)二人・衛士(えし)三人など、いわゆる、十五人揃(ぞろ)いといわれる人間をかざるようになったのは、江戸時代末期からであるといわれる。また、最近では近代建築や、生活環境の変化から簡略された木目人形・こけし人形・縫ぐるみ人形なども多く出るようになった。
 食べ物として、農村では、蓬(よもぎ)を摘んで草餅を搗(つ)き、それをひし餅にして雛段にお供えし、皆で祝って食べる習慣がある。蓬は昔から、身体の毒をくだすと言われており、子供たちが「心身ともに健康に育ちますように」との願いのあらわれが、このお雛祭りであった。雛段に緋(ひ)毛せんを敷くのは、「赤誠(せきせい)」つまり、まごころを土台とすべきであることを、強調しているのである。女の子が生まれて初めての節句を、「初節句」といい、親戚を集めて御馳走(ごちそう)をしお祝いをする。また、女の子がお雛様をもらうと、嫁入りする時は、そのお雛様を現在も持っていっている。

 

  (注)=平安時代に日本に…………類聚国史(るいじゅうこくし)に延暦十一年(七九二)の中に「三月丁己南園に幸して」………聖徳太子の頃にも雛遊びが行われていた。
     宮中で三月三日、上巳(じょうし)の祓(はらえ)と、巳(み)の日の祓の記事初見……これを言うのでしょうか、紙の人形で体をなで、病気、災いを祓して流す行事。然し、ひな祭りの原型ができあがったのは、室町時代といわれる。ひなを飾る風習は徳川時代の初期、ひな段は元禄時代から。