彼岸とは、此岸(しがん)に対してのことで、仏教でいう彼岸は、到彼岸(とうひがん)ということで、此岸より彼岸に到(いた)るということである。現実界を此岸とすれば、理想界が彼岸である。即ち到彼岸とは、現実界より理想界へ向かって進むという意味である。現実界は、何事も不完全で、不平や不満の多い世界である。この不完全な世界から、完全な世界に向かって、発展進歩しなければならないというのが、到彼岸という意味である。彼岸の期間は、春分・秋分の日を中心に、前後七日間を彼岸と呼んでおり、その七日間の初めの日を「入(い)り」、まん中の日を「中日(ちゅうにち)」、最後の日を「あけ」または、「お結願(ゆいがん)」といっている。この彼岸の間に行われる寺院での法要などを「彼岸会(ひがんえ)」といい、期間中、先祖の家では、「おはぎ」または、「米の粉団子」を作って、仏壇や、お墓にお供えする習慣が昔から続いている。お墓参りも、彼岸の入り日・中日・あけの三回、団子を作ってお参りする家もあり、多くの家では少なくとも一回はお参りしている。わが国における「彼岸会」の始まった直接の起こりは、「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」というお経(きょう)に説かれ、日想観(にっそうかん)(観法を行う一つの修行法)をすることにはじまる。一つは自らの心の修養を策励(さくれい)し、一つは我々の先祖や、亡くなった者の追善供養(ついぜんくよう)を営むこと、これは迷いの此岸である。この娑婆(しゃば)世界より、悟(さと)りの浄土へ到(いた)らしむるという意味である。この彼岸会は、印度・中国では行われず、ひとり日本のみで行われたもので、その起源は、聖徳太子(しょうとくたいし)(五七四―六二一)時代に始まったと言い、または、延暦(えんりゃく)二十五年(八〇六)二月の官符(かんぷ)により始まったともいう、最初は諸国にある国分寺の僧侶に、春・秋二期の七日間、金剛般若波羅蜜多経(こんごうはんにゃはらみたきょう)を読ませたことが最初ともいわれている。平安時代以後は、各宗において、盛んに行われて現在に及んでいる。彼岸法要は、日本中のたいていの寺で行われていて、期間中長くつとめるところでは七日間、短いところでは一日の法要があり、近くの随喜(ずいき)奉仕の僧侶により、先祖の追善回向(ついぜんえこう)や、卒塔婆(そとば)の回向(えこう)が行われ、そのあとで彼岸法話やお説教がある。また、お墓まいりは、ご恩を受けた者に対し報恩することが、自分たちの幸福につながるとともに、みんなが平等で、幸福になる種まきであるというのである。
春のお彼岸になると、お大師まいりをするとよく言われるが、これは弘法大師さまのことで、真言宗をお開きになった方である。この宗旨を中心に他の宗旨でも、よく唱えられるお経に、般若波羅蜜多心経(はんにゃはらみたしんぎょう)がある。略して般若心経(はんにゃしんぎょう)という、弘法大師が入寂(にゅうじゃく)されたのがちょうど春のお彼岸の中日に当たる三月二十一日頃であるため、彼岸前後には、全国津々浦々にあるお大師さまをまつった、八十八か所(下松地方にも何か所かある)まいりに、先達(せんたつ)を中心にして、同行(どうぎょう)で心経や、詠歌(えいか)を唱(とな)えながら修行して歩かれる姿が見受けられるが、春の彼岸の方が秋の彼岸より多い。この日は、各地のお大師堂の近くで、「おむすび」のお接待をする所もある。
また、昔から彼岸の間の修行としての実践行に、六波羅蜜(ろくはらみつ)の教えがある。これは、布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・知恵(ちえ)に区分(くわ)けして示されているが、彼岸または、彼岸会と称する行事は、まさしくこの行を修することに意義があるのであって、お彼岸が七日間行われるのは、心の汚(けが)れを浄(きよ)めることに専念するための、期間であるとされているのである。
ある地方に伝承されている風俗習慣によれば、お彼岸にはお墓に参り、彼岸団子を作って仏様に供え、一家の者で食べたあと、秋の彼岸には、お月様が西方浄土へ沈むというので、丘の上に上って、夕日が海の向こうへ沈むものを、拝んだものであったと伝えられている。この付近でも、こうした習慣があったものと思われる、いずれにせよ彼岸会は、わが国の仏教から生まれた民間行事であって、人々に最も親しまれている、民俗的行事の代表的なものである。明治初年の神仏分離以来、七十年間は、春・秋二季の皇霊祭として、国家の祝日となり、また、戦後は春分の日・秋分の日と改められて、国民の祝日となっていることからも推察される。
注=観経十六観の第一(日想観(にっそうかん))日観・日輪観ともいう。極楽浄土の方所を識(し)るために、日輪の出没東西正当なるときを選んで日の没入するを観じ、彼の土の光明を観想して、不知不識の間に念を浄土に及ばしめるのをいう。