32 端午(たんご)

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 五月五日の節句であるが、元来「端(たん)」は初めの意味で、五月最初の「午(うま)」の日をさしていた。それが重陽(ちょうよう)(九月九日)や、重三(ちょうさん)(三月三日)と同じく五日に固定したものといわれている。中国の漢時代以後、盛んになった行事が、日本に伝えられたものであるが。日本でも五月は田植えに伴う信仰行事があって、忌み月とされていたから、菖蒲(しょうぶ)・ちまきなどによる悪魔祓(あくまはらい)の風習が、受け入れられたのであろう。「端午」が男の節句となったのは、すでに平安時代のことであったが、武士の社会になって、一層強まり、江戸時代には五節句の一つとして、三月三日の「桃の節句」と対となった。
 この時代から、家の前に棚を作って幟(のぼり)・菖蒲(しょうぶ)・かぶと・槍・吹流しなど、華(はな)やかに飾る習わしができた。
 はじめは外飾りが主であったが、後、だんだん家の中へも武者人形や、幟などを飾るようになった。人形は神功皇后(じんぐうこうごう)・武内宿祢(たけのうちすくね)・八幡太郎義家・鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)・加藤清正など、歴史や、伝説に現れる武者をかたちどったものや、桃太郎・金太郎などの、おとぎ話の主人公の人形などが好まれた。鍾馗(しょうき)も疫病を追い払う神として祭られた。
 鯉のぼりは、江戸中期頃になって始まったもので、鯉は出世の魚とされたのである。
しかし、江戸時代を通じて、一般農家などでは、ごく簡単にお祝いしたようで、「風土注進案」などを見ても、いずれの村々も「五月節句は、農業肝要の時節に付一統休息はつかまつらず」と言っている。今のように盛んに祝われるようになったのは、農村では、明治中期以降のことであろうか。長男が生まれての、初めての「端午」(初端午)には、子の母親の里から、五月人形や、幟(のぼり)が贈られ、親類からは鯉のぼりなどが贈られ、祝客を招いて祝宴をはる。幟(のぼり)には婚家と実家の「家紋(かもん)」を入れるのが習(なら)わしになっている。
 この日は昔から「菖蒲の節句(しょうぶのせっく)」ともいわれ、菖蒲湯をたき、また、蓬(よもぎ)と菖蒲を束ねて屋根にさし、悪魔祓をした。その起源は、延喜式にさかのぼるといわれている。親元や親類近所へ笹巻や、イギの葉餅(柏餅(かしわもち))を配(くば)るのが習わしである。
 この日を国民の祝日「こどもの日」として、こども中心の行事も行われている。