「夏越(なごし)」の祓(はらえ)ともいう、大宝令(七〇一)により定められたもので、夏の終わりである旧暦六月晦(つごもり)日に、朝廷に奉仕する百官百民の罪や、けがれを除くための祓で、宮中をはじめ、各地の神社で行われており、大祓の祝詞(のりと)といわれる中臣(なかとみ)祭文が奏される。
病や水難を逃れて、長寿を得るための行事として、神社などでは、参詣人に茅(かや)の輪をくぐりをさせたり、形代(かたしろ)(人形)にけがれをうつして、これを祓ったり、川に流したりして、疫除(えきの)けをする風習もあった。「大祓」というのは、一人ひとりの祓でなくて、広く諸人(もろびと)の祓である意味の名である。大祓には恒例と、臨時の区別があって、臨時大祓は、罪・けがれのある時に臨んで行い、恒例は六月と、十二月との晦日(みそか)に行われる。
「都濃郡宰判風土注進案」の中の「風俗の事」の項を見ると、旧藩の村々の書きあげに、いずれもこの日を「逆蠅祓(さばらい)」、または、「早蠅払(さばらい)」という字を当てているが、牛馬厄除(やくよ)けのため、河川または、海に連れて行き、水浴させるのが古来よりのしきたりとなっている。今でこそ、耕耘(こううん)機が牛馬にかわって、田圃(たんぼ)で働く牛馬の姿を見かけないが、十数年前までは、牛馬は農家にとって大切な役割を荷負っていた。田畑の耕耘(こううん)は勿論(もちろん)、堆肥(たいひ)の利用や、肥育して肉牛としての利用価値、現金収入の少なかった農家にとって大事な助けであった。
この大切な牛に自家生産の麦や、大豆等を飼料とし、わらや、刈草等の世話をすることは、家族の一員であるという感じであった。五月・六月の農繁期には、晴天であろうが、雨天であろうが、予定にしたがって早朝から夕方、太陽の沈むまでも、田の鋤(す)き起こしから代搔(しろか)きと重労働が続く。この間、牛も人間も、体重は減り、疲労の極に達するが、牛も旧暦の六月末になると一息(ひといき)つけるのである。