52 盆行事(ぼんぎょうじ)

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 わが国では、一月から十二月までを、一続きの一年とは考えないで、六月を境にして、二期に分けて考えていたようである。そして、この二つの期間の年中行事を比較してみると、共通する箇所が非常に多く、同じことが繰り返し行われていたと考えられる面が少なくない。正月行事と、盆行事との間には、その傾向が著しくみられる。
 盆は仏教の仏説盂蘭盆経(うらぼんきょう)に基因し、わが国の祖先崇拝(すうはい)の思想と結びついたものである。孝心の深い、釈尊の弟子の日蓮尊者が、母親を餓鬼道(がきどう)の苦しみから救い出そうとして、釈尊の教えに従い、陰暦七月十五日(即ち仏僧の夏期修業の最後の日)に大供養(だいくよう)法会(ほうえ)を営み、その回向(えこう)の効力によって、母親を救われたことから始まったのである。また、盆の法会(ほうえ)を営めば、現存している父母の福徳をまし、悪道より救うばかりでなく、親類縁者にまでその功徳(くどく)を及ぼし、また、七代も前の父母や、縁者をも救うといわれている。
 こうした功徳(くどく)を持つ盆は、中国よりわが国に伝わり、三十七代斉明天皇三年(六五七)七月に行われたという。こうして、祖先崇拝(すうはい)の風習は、わが国の国民性と合致し、国内に盛んに行われた。盆は陰暦の「なぬか日」から始まる。しかし、旧暦七月の盆は、東京近郊で行われるが、地方では、新暦八月の盆は月おくれの盆といい、だいたい日本国中で行われる。まだ田舎では、農漁業の関係から、旧暦八月の盆も行われている。
 「なぬか日」には、お墓や、仏壇の清掃を必ず行う。水道のなかった時代は、井戸かえが行われたそうであるが、その由来はさだかでない。十一日・十二日の何れかに、草市が開かれる。正月の前の「歳の市(としのいち)」のように、精霊棚(しょうりょうだな)の飾物等の、盆用品が売られた。別名を盆市(ぼんいち)ともいわれていた。
 十三日に精霊棚を家の中に設け、真菰(まこも)の蓆(むしろ)を敷き、祖先以来の位牌(いはい)を祭り、正面の左右に笹竹を立て、柱とし、素麺(そうめん)や、お供物を供え、迎団子(むかえだんご)をこしらえて精霊を迎えたという。
 盆中の仏様へのお供物も、仏教の各宗派や、各家庭の風習によってもちがい、一概(いちがい)には言われない。ある宗派によっては、盆中三日間、毎日三度、小さなお膳に、小さなお椀をそなえ、一汁三菜以上の副食物を供えていたという。最近、随分(ずいぶん)と簡略化されているが、戦前の盆中に、仏壇にあがっていた料理の一例をあげよう。
 ○十三日の料理、朝汁(豆ふ、しいたけ)・お平(ひら)(あげ)・中ちょこ(菓子)
     つけもの(きゅうり)・ごはん(三時には、お餅をついてあげる)
 ○十四日の料理、朝汁・お平(ひら)(ささげ、なすび、かぼちゃをたいたもの)・なまあげ
     中ちょこ(菓子)・つけもの(なら漬)
 ○十五日の料理、朝汁(豆ふのみそ汁)・お平(ごぼう、れんこん、にんじん、じゃがいも、しいたけ)・中ちょこ(菓子)・つけもの
生きている人をもてなすようにお供えした。普通の家では、ふのお汁・黒め・豆ふ・きゅうりもみ等を、一日に一度供えていたようである。
 盆中は七度食事をし、七度泳ぎ、七度親をおがみ、七度祖先をおがむといっていた。使用人は家に帰し休ませた。親類縁者は、互いに仏様をおがみに往き来していた。
 十六日は精霊送りで、祖先の御霊(みたま)が浄土(じょうど)に帰ってゆかれる日である。精霊流し(しょうりょうながし)といい、麦わらでつくった舟、厚紙や、蓮(はす)の葉でこしらえた舟に、盆に供えたお供物をのせ、ろうそくの灯を映しながら、ゆうゆうと川を流れ海にゆき、浄土の国へとかえってゆくという盆の行事は、これで一応終わったことになる。
 精霊流しについて、昭和五十六年の下松地方紙・「日刊新下松」の記事を掲げよう。
  「平田川の名物精霊流し
      八月十六日(日)夜八時半から………」
 市内大海町東・西自治会の主催、大海町商店会後援による平田川の、夏の風物詩「精霊流し」は、お盆の八月十六日(日)夜盛大に挙行、今年は潮の関係で、夜八時半からの御詠歌(ごえいか)(テープによる)開始。九時から「極楽丸」を先頭に百八つの灯籠を干潮に乗せて、沖まで流すことになった。この平田川の「精霊流し」は戦時中、一時中断されていたもの、戦後、地元青年団の尽力で復活、また、その灯が消えそうになったが、今度は大海町東・西両自治会が本格的に乗り出し、盛大に執行されることになった。
 同夜、潮を待っての灯籠流しが始まるまで、集まる人のためにバンド演奏がある。また、長さ四〇センチメートル・幅三〇センチメートルぐらいに作られた、大精霊船(灯籠)は、昨年と変らず、一般が五百円、卒塔婆(そとば)三百円で予約を受付け、祈願し流されることになっている。なお、毎年多数の見物客で、大海町橋の上、平田川土手は押すな押すなの盛況で、付近に駐車場もないところから、同夜六時から十時ごろまで、国道一八八号線から、市道中央線までと、西市のみどり屋角から大海町西の内山商店までは、全面交通止めとなる。
 とにかく暑い夏の夜、川面にろうそくの灯を映しながら、ゆらゆら流れていく精霊流しは数少なくなった。日本の風物詩として、いつまでも人びとの記憶に残るもの、出来るだけ多数の市民に見てもらいたいと呼びかけている。」以上、原文のまま。
 盆の行事として、昔は、風土注進案によれば末武の条に、
 七月に入頭立候者は盆会之為施餓鬼(せがき)旦那寺申請読経相営、小彩之者は斎米(さいまい)少々宛旦那寺へ相頼候事。
 とあるが、盆のはじめ、盆法会の内として、施餓鬼(せがき)の行事が必ず行われていたようである。
 施餓鬼(せがき)は「餓鬼」に施しをすることで、盆会の中心をなす行事であるが、今はあまり行われない。盆といえば、盆踊りを連想するが、実は日蓮尊者が母親を餓鬼道から救い出したときの、喜びをあらわしたものである。しかし農家にとっては、次に来る二百十日前後の、大風雨を無事にすることは、盆以上に大切なことであった。そのためか盆踊りが、「風鎮踊り(ふうちんおどり)」と変わっていったと思われる。また、昔は風鎮の神として、室積峨媚山(がびざん)の谷あいにある杵崎神社(きざきじんじゃ)を崇敬(すうけい)し、二百十日前には、地域の代表者がお宮にお参りして、お札(ふだ)をいただいて帰り、二百十日前に踊りをしていた。杵崎踊りといっていたが、これも盆踊り・風鎮踊りと合体して現在は行われている。盆踊りのときは必ず会場に、初盆(その年になくなられた人)の位牌(いはい)や、写真を祭って供養(くよう)している。
 昭和五十六年の下松風鎮踊りについて、下松地方紙・「日刊新下松」の記事を掲げよう。
 「妙見宮風鎮大踊り
    ことしも、三十日夜盛大豪華に」
 下松市内は言うに及ばず、昔から、周南地区の近郷・近在から、多数の踊り子を集め、その規模と華麗さは類を見ない。市内中市鷲頭寺(じゅとうじ)妙見宮の「風鎮大踊り」は、家内安全、五穀豊穣を祈って、小・中学生夏休み最後の三十日(日)、子供会踊りコンクールは、午後七時から、大人の仮装競演大会は午後八時から、同社境内で盛大に開かれることになった………………
 この「風鎮踊り」というのは、「風の神の怒りを鎮める」つまり台風期に入るこの時期に、踊りを奉納して、五穀豊穣と、家内安全を祈念するというのが昔からの習(なら)わしだが、最近は一家の交通安全、無事進学を祈念する人も多いという……………
 昭和の初期までは、今日のように娯楽も多くなく、それだけに楽しみとされ、一晩中、太鼓やくどきなどが、花岡方面にまで聞かれたそうで、徳山や光方面からも、多数この踊りに参加した。」以上、原文のまま。