53 八朔行事(はっさくぎょうじ)

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 八朔は、陰暦の八月一日のことである。現在はあまり行われていない。前述の風土注進案によれば、末武上の条に、「八朔重九、一統休息不仕候、農業早く仕舞神詣等仕候事。」と記されていて、神道関係の行事であったと思われる。八十九代・後深草院の建長年間(一二四九~)の頃より始まったという。田の実(みの)るを祝うた、農家の儀式から起こったもので、農家の祝日としていた。赤飯や・餅・八朔団子をつくって、五穀の神に供え祭った。ある地方では、「八朔飯」を食べると蚊(か)がいぬるといっているところもある。秋作のはじまりで、種まきの日としていた。赤飯や・餅・八朔団子・八朔のまぜ飯をつくって、五穀の神に供え祭った。秋作のはじまりで、種まきの日とした。また、この日を春忘れ、休みじまいともいった。昼寝も今日で終わるとされた。陰暦八月一日は、毎年新暦八月の末になり、台風の時期にあたるので、踊りが行われ「八朔おどり」といっていた。秋の豊作を祈る踊りである。
 昔の娯楽のない時代では、踊りは一番大衆的な娯楽であったので、何か行事があれば、いろいろの名をつけては踊っていたものと思う。盆踊り・八朔踊り・風鎮踊り・杵崎(きざき)踊り等、八月一日の八朔を盆の終わりとして、「八朔盆」というが、二月一日を二月正月として、正月の終わりとしたのと同義であると思う。
 新八朔行事として、朝日新聞に出ていた記事を左に掲げよう。
旧暦八月一日の、八朔の未明に現れる態本県八代海の不知火(しらぬび)は、二十九日、時おり小雨がばらつく中で、わずかに白い炎を海上に点々と揺(ゆ)らせた不知火(しらぬび)………………「神秘の火」の見出しの記事でのっていた。
 毎年、八朔の未明に現れるという「不知火(しらぬび)」は、現代版の新八朔の行事といえよう。八朔の起源は、諸説あって明らかでない。後嵯峨天皇が皇太子時代に、行事化されたというのが一番古い。徳川幕府になって、家康の江戸入府の日と重なるので公式の日となった。