十二支(し)を各月に配当すると、十月は亥の月にあたる。そこで、亥の月の・亥の日の・亥の刻という亥の連続に意義を見出したのであろう。詳(くわ)しい理由は明らかでない。亥の月の、亥の日には、上亥・中亥・下亥の別があるが、稲の収穫と見合わせて、適当な亥の日を祭りの日とした。上亥・中亥・下亥の三回とも行った地方もある。
この日、亥の子餅(亥の日餅)といって、新しくとれた糯米(もちごめ)の飯に餡(あん)をつけた牡丹餅(ぼたもち)を、神様に供えた。近世には、小豆を混ぜた薄(うす)赤い色の餅を搗(つ)いたが、後に牡丹餅(ぼたもち)をつくるように変わった。家族一同でこの餅を食べて、無病息災と子孫繁栄を祈った。また、この餅を農事の田植えや、稲の刈り入れのとき、世話になった家に配(くば)る風習もあった。家で餅をつくり、田の神様への感謝と、収穫祭とを渾(こん)然一体とした行事をしたものである。
亥の月の、亥の日の、亥の刻(午後九時から十一時頃)に亥の子牡丹餅を食う「亥の子餅」の祝儀は、万病を除くまじないとも、また、猪(いのしし)は多産であるから、子孫繁栄を祝うためともいう。
江戸時代には、この日から火燵(こたつ)を用いはじめたという。「亥の子の祝」は中国から伝来した行事で、日本には平安時代に伝わり、まず、宮廷儀式となり、公家社会でこの日に、猪の子形の餅を献上する伝承があり、その後一般に広まり日本古来の収穫祭と併合され、収穫が終わる時期の、田の神を祭る行事の一つとなった。亥の子の祝を玄猪(げんちょ)ともいい、餅を亥の子形につくったりすることから、さきに書いた猪の多産であることにあやかることとつながる。なお、鳥獣の霊を祭るという風習もある。家畜の飼育されなかった時代、猪を捕獲して、農耕に及ぼす被害を防止したり、その肉を利用したりした名残(なご)りであったのかもしれない。したがって、この祭事は、この慰霊の意味から行われるともいえる。事実「猪供養(くよう)」と刻んだ宝暦期の造塔もあるとか…………
おもに、関西から南九州までの広域でみられる行事である。ちなみに、亥の日を祝う行事として、北関東地方で「十日夜」と呼ばれるものがある。この日、田の神が山へ帰るという俗信(ぞくしん)があり、子供たちが、藁鉄砲(わらでっぽう)をつくって「トウカンヤのわら鉄砲、餅を食ってひっぱたけ」と唱(とな)えながら、それで地面をたたき、もぐら除(よ)けのまじないをする収穫儀礼が行われた。
○亥の子つき
子供たちは、この日、亥の子つきといって、漬物(つけもの)石くらいの石に、子供の数ほどの縄をつけて、亥の子唄を歌いながら、ドスン・ドスンと地面をその石でたたきながら近所の家をまわり、餅や、みかんや小鋳(こぜに)をもらった。亥の子つきは収穫が終わった土地を鎮(しず)め固める儀礼か、或(あるい)は、土地にもぐる精霊たちに、地面をたたき活(かつ)を入れることで、来年の生産力を強めようとする、子供参加の呪術(じゅじゅつ)的行事の一つであろう。
〽亥の子 亥の子 亥の子餅ョ 搗(つ)かんもんァ 鬼オ産め 蛇(じゃ)ァ産め
角(つの)の生えた 子を産め
と歌い、みかんや餅をくれると「繁盛セ盛繁セ」と祝うが、くれないと「貧乏セ貧乏セ」と歌ったりする。
○切山地区の亥の子
切山地区では、昭和四十年頃まで、亥の子つきの行事が行われていた。その後中断していたが、十数年ぶりに復活した。昭和五十四年、切山青年団が中心となり、ふるさとづくりの活動の一環として、民俗文化財の一つである亥の子つきの伝承にとりくんだ、地域の小学生参加による亥の子つき行事である。
○昭和四十年頃までの亥の子つき
当時、切山地区では峠市・下村・中郷・西ケ浴・宮本・大原・上ケ原・高山の各地区ともこの行事を行っていた。行事参加者は、小学五・六年生以上中学二年生までで、女人禁制であった。新暦十一月の、亥の日の三回とも行っていたという。
行事に先だち次のことを準備する。
・亥の子石の飾りつけ
亥の子石に、金紙・銀紙と七色(白・赤・青・緑・黄・黄緑・桃)の色紙を下図のように折って飾りつける。
ろうどめして、最後に木栓を打ち込み固定する。
だんだん小さく折った色紙で、四重・五重と重ねて飾りつける。
飾りつけが終わると、当屋の床の間にかざる。
・梵天(ぼんてん)(御幣(ごへい))
叩(はたき)ぐらいの長さの女竹に、亥の子石に飾りつけた色紙と同じ折り紙をはさんでつくる。この梵天は、亥の子つきをし家々に配る。
当屋のものは、特別に金紙・銀紙の折り紙を添えてつくった。
・灯籠(とうろう)
木枠で四角柱の形の灯籠をつくって、当屋に持ち寄る。紙張りをして、赤・青インクでちらし模様を書く。亥の子つきは、亥の刻の行事であり、暗くなってはじめ、また、田舎道をまわって歩くので、この灯籠のろうそくの火の明りが役立った。
・短冊(たんざく)
色とりどりの短冊を、ささ竹につるす。
・幟(のぼり)
赤と白で二メートル程度のものをつくり当屋に立てた。
・亥の子つき
亥の子つきは、当屋からつきはじめる。当屋は、その年、男の子が生まれた家である。[地区によっては、出生状況により、当屋の決めにくいこともあり、当番制で決めた。亥の刻の行事であるので、日が落ち暗くなってからはじめる。当屋から、つぎつぎと地域全戸をついて回る。つき方に、亥の子(ひと所をうつ)と流れ星(うつ所を変えて数か所うつ。もともと(∴)形に三か所をうっていたといい、毛利氏紋所(〓)をうったのがはじまりという]があった。全戸をつき終わるとまた当屋にもどり今一度つく。つき終わると梵天を当主に渡し、当主は、これを神棚か床の間に飾った。家の人は、亥の子つきをしてくれた子どもたちに、餅・菓子・果物・小銭などを与えた。亥の子石でついた穴が深いほど縁起がよいといわれ、家の人は「今年はよう深ううってもらいましたのー」と喜んだ。その頃すでに十一時近くなっている。
この行事で、隣地区の亥の子つきと擦(すれ)違い、競(せり)合い喧嘩(けんか)もしばしばだったとか。亥の子石を奪い合うこともあり、この時、一番年長子がこれを守る責任があった。亥の子石を奪われると子供たち全体の恥辱(ちじょく)であった。
こうした行事が、地域内近隣の子供同志の年齢差を越えた心の交流と、わらべ文化の伝承に役立っていた。
亥の子つきに歌った唄
〽亥の子 亥の子 亥の子餅ついて 祝わん者は 鬼の子を生め 蛇(じゃ)生め
一に俵を踏んまえて 二でにっこり笑って 三で酒を造って 四つ世の中よいように
五ついつものごとくに 六つ無病息災に 七つ何事無いように
八つ屋敷を広めて 九つここに倉を建て 十でとうとうおさめた
これの家は 繁盛セ 繁盛セ
○亥の子つきの思い出 (恋が浜 Aさん)
「亥の子」と聞きますと、子どもの頃のあれこれと遊んだ姿が、次つぎに思い浮かんできます。ほんとうに懐かしい。今思えば素朴(そぼく)そのものでした。たいして変わった行事でもないのに、当時は、待ちに待った年一度の、それこそ心のわくわくする一日でした。まるで踊りまくりたいほどの嬉しさでした。農家にとっても一番忙しく、重労働であった稲の収穫期を終わった直後で、大人たちも、ほっと一息つく気持ちだったでしょうし、子ども心にもそれを感じて、農業の手伝いの苦労から解放された喜びがあったのかもしれません。
「亥の子 亥の子 亥の子餅やごいせんか………………」楽しかったです。
亥の子を祝う行事は、旧暦十月の亥の日です。この日は朝からなんとなく心がおどり、いつもの日とは全く違う日のように感じたものです。各家の男の子は、御幣(ごへい)をつくって、当屋になった家に集まりました。御幣(ごへい)は、それぞれで竹と色紙でつくりましたが、今もあの頃の色紙の感触(かんしょく)がこの手に残っています。
地区の男の子が、当屋に集まりますと、みんなでその家で御馳走(ごちそう)になりました。当時は、今のように、子どもが、レストラン・喫茶(きっさ)店で外食することなどありませんので、他家で御馳走になることが、なんだか特別の世界のように思いました。夕方、御馳走を食べ終わって暗くなると、当屋になった家を最初につきました。
〽えべっさー だいこくさー 一に俵ふんまえて………………………… 繁盛セ 繁盛セ」
力いっぱい声をはりあげてつきました。
亥の子石のつき綱は、年長の子が持って、亥の子石を中心にみんなで輪になって歌に合わせてつくのです。
つき終わると、みかんや、飴(あめ)などを祝儀として、その家の人からもらったものです。子ども心に、ほんとうはこれが一番楽しみでした。
〽ここらでひとつ やってくれ やりましょう やりましょう
亥の子というて 祝わん者は 鬼をもうけ 蛇(じゃ)もうけ 角(つの)の生えた子をもうけ
えべっさー だいこくさー 一に俵ふんまえて……………