もともと地蔵はインドの地神であった。それが、釈尊の開いた仏教によると、仏には大日如来(だいにちにょらい)(密教浄土)、薬師如来(東方瑠璃光浄土(とうほうるりこうじょうど)をもつ)、阿弥陀如来(あみだにょらい)(西方極楽浄土)、観音大士(南海普陀落浄土)、弥勒菩薩(みろくぼさつ)(兜率天(とそつてん)を主宰する)…………これらは至福至楽の仏国である。浄土へ往生することを願う往生思想は、飛鳥・白鳳時代(あすか・はくほうじだい)に上流社会の貴人たちの信仰に支えられて広められていった。
二百十億の浄土があるというのに対して地蔵菩薩だけは、暗黒の地底を常住としてここにくだってくる地獄の罪人を一人でも多く救済しようと待ち受けているのである。地蔵は招かれもしないのに、地獄の「閻魔大王(えんまだいおう)」の地下である「冥府(めいふ)」にはいり込み、冥律(めいりつ)を無視して罪人を出獄させたり赦(ゆる)したりする。閻王からみると、冥府の秩序を乱す公務妨害者である地蔵を、とがめたり冥府から追い出したりすることはできないのである。というのは、地蔵は閻王系統の行政官でもなく、身分が菩薩の位でその背後には釈迦仏(しゃかぶつ)という実力者がいて、地蔵はその特命を受けて動いていると考えられるからで、さすがの閻王も文句がいえず、見て見ぬふりをしていなければならないのである。
地蔵が地下にもぐったのは遠い因縁があった。地蔵の梵名(ぼんめい)は、「キシチ・ギャバ」で、キシチ(地)・ギャバ(母体)、仏教以前の古代インドの信仰では大地の神・万物を包蔵し生育する母なる神、いわゆる原始母神のひとつであったのである。それが後には男とも考えられて、やがて昇格したのが地蔵菩薩である。本来の地の神は密教の方に継承されて堅牢地天という女体の守護神となる。しかし両者とも一神の分化であり、共に農耕民族特有の大地信仰に縁がある。大慈大悲の菩薩として独立した後も、地蔵はやはり地底に住むと考えられ、地底菩薩ということになったのである。冥府の潜在主権はやはり地蔵菩薩であったのかも知れない。
地蔵信仰が盛んになったのは、平安時代の末期であろうか。上流社会より移って鎌倉・江戸時代では最も庶民に信仰されるようになった。
そもそもインドから中国に渡って中国風に変化し、それがまた日本へ伝来して、これを吸収同化する国民性は、この地蔵菩薩を最も庶民の親しまれるお地蔵さんに仕立て上げたのである。それは日本に伝来してからも、今日までの永い歴史の中で、庶民の生活の移り変りの中にあって、地の母なる神であった地蔵の本来の性格は、子どもを守る母性愛の地蔵菩薩――お地蔵さんに変身したのであろうか。
坂上田村磨(さかのうえのたむらまろ)が、清水寺(きよみずでら)の地蔵尊に戦勝祈願をしたことが知られて以後、武将の間で信仰されてきた。平清盛・源頼朝・北条時頼・時宗・足利尊氏・直義などは、たいへんな地蔵信仰者であったという。尊氏・直義などは、自ら地蔵さまの絵を描いて人に分け与え、また、自ら石像を彫刻して辻に建てさせたという。それがどうしたわけか、今は子安地蔵といわれている。
地蔵信仰に大いに力を入れたのは真言宗といえよう。地蔵十五経の思想が庶民の間にいきわたり、ついには、ほとんどの各村に十王堂が建てられ、地蔵十王経(十王)がおのおの罪人を審判している姿が示されて勧善懲悪の手本となった。
(和歌森太郎氏の神と仏の間より)