8 六地蔵(ろくじぞう) (旗岡(はたおか))

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 市営墓地旗岡の入口に、普通より数倍大きく全高一・七メートルもある六地蔵が立っている。制作年代は不詳である。この六地蔵はもともとここにあったわけではなく、昔は宮の洲の墓地にあった。ところが大正の初め、久原房之助氏が下松に大工業都市を実現するため、土地を譲り受けた。
 そのため墓地が移転となり、墓は今の二宮町の、現在小さなお社がある付近に移された。
 ある晩のこと、寺迫の兼田某氏の枕元で、大きな六地蔵が頭から血を出して、地の底に埋っているので早く掘り出してほしいとしきりに訴えた。その人は驚いて翌朝、枕元に立った六地蔵の言ったところを掘ってみると、大きな傷のついた地蔵さんが六体出てきた。早速そこにまつるとお参りする人も多くなり、はっこう(盛んに)したそうである。
 移転工事の際、工事をする人が何とも思わず埋めてしまったのであろう。その後東洋鋼鈑(こうはん)下松工場が設立されるに当たり、道路拡張のためこの墓地も旗岡に移転となり、この六地蔵もやっと安住の地に落ち着いたが、数奇な運命をたどったためか、三体は中程から折れたり欠けたりしている。
 そもそも、六地蔵は昔から墓地の入口に立っているのが普通で、年代も江戸末期より明治初年にかけて制作されたものが多いようである。
 下松市内においても、寺院や墓地その他に何十か所もあるため、はっきりした数は不明である。所によると、月たらずで生まれた「水子」をこの六地蔵の後に埋葬する習慣があった。迷わず成仏するようにお地蔵さんにお願いしたのであろう。
 仏教では、亡者が六道を迷わず、お地蔵さんのみちびきで、無事極楽へいきつけるようにお祈りする習慣が、現在までひき継がれている。