東側
享和三年癸亥年正月吉日 (一八〇三)
鷲頭寺現住恵亮代
願主 磯部清右衛門 磯部弥四郎
原田友右衛門 磯部吉左衛門
東側
西側
文化五戊辰年九月吉日 (一八〇八)
鷲頭寺現住恵実代
願主 清木善右衛門 清木七左衛門 清木彦右衛門
願文は読みにくいが、享和三年の願文は
「前略」「若有衆生能於此塔一香一花礼拝供養八十億劫生死重罪一時消滅生免災殃死生仏家焉」
「もし衆生よくこの塔に一香一花礼拝供養すれば、八十億劫(ごう)の生死重罪は一時に消滅し生きては災害を免じ、死しては仏家に生まれん」と記されている。
西側
この塔は鷲頭寺所有のものであったが、松心寺に置かれてあるのには、わけがある。明治初め神仏分離のとき、妙見社の仏体仏具を全部とり除くことになり、社坊鷲頭寺も下松中市に遷(うつ)ることになった。この時、鷲頭寺境内にあったこの宝篋印塔も取り除かれ、中市に移されることとなった。これに対して住民の反対ははげしく、遂に道中で妨害し、この宝篋印塔を松心寺裏の薮(やぶ)の中にかくしたという。その後、明治二十五年山田氏により改めて松心寺の現在地に建立されたのである。