たらちねを おもうこころは 降りつもる
雪よりもげに ふかくやありけむ 元徳
孝女満佐碑
正三位勲三等男爵揖取素彦撰
孝女名満佐周防笠戸島人父日八助平生嗜酒家
頗貧満佐日出海濱拾魚貝鬻以給父焉母亦病満
佐自謂今日以往唯在祈神而己降松妙見為遠近
所敬仰満佐毎且沐浴祈其快愈一日拂曉自撑舟
賽祠時屬嚴冬寒氣刺膚満佐冐風浪僅得達祠既
而歸路卒倒於道邨民救之絶而復蘓焉無幾母遂
盲満佐供養如一日八助歿尋而母亦死満佐哀毀踰制隣並稱其篤行藩侯
嘉其至孝歳賜米一苞藩制農家禁稱族獨令満佐稱族盖特典也満佐以安
政七年閏三月二十七日終於家年九十九族人宇吉承家明治七年縣追賞
篤行賜米貳拾苞十八年車駕親臨山口縣旌表門閭周防人武弘宣路代島
民謁毛利公将請国歌以刻石介人索余碑文鳴乎満佐生長一孤島非受師
傳保姆之教而篤行如此盖至孝出於天性者也矣余深感満佐之行併嘉島
民之擧記此附以銘銘日
周防之海 清而且瀰 島有笠戸 翠松蔵〓
孝女所宅 美擧四馳 吉人天祐 賜賚斯縻
噫孝女蹟 實百世師
明治三十年十月建 正四位勲三等巌谷修書
井亀泉刻
孝女まさは、世に大津のとわ女、吉敷のお石女とならんで「防長の三孝女」とたたえられ、また、徳山のおよね、久保のおかやとあわせて「都濃郡の三孝女」とも称せられる。
まさは、今から約二百二十年前の宝暦十二年(一七六二)の春三月五日、笠戸島深浦の貧農の子として生まれ、母の名は不明であるが父は八助といい、大変酒の好きな人であった。
まさの生まれた宝暦年間は、天災が非常に多く米・麦など不作の年が続いた。特にまさの生まれた宝暦十二年は、夏は干害、初秋には暴風雨があって、防長の作高のうち十六万余石の大被害を受けた。特に天水にたよる島の農家の稲作は、皆無に近く、農家の難渋は言語につくしがたい状態であった。ただでさえ貧しい小作人のまさの母は、酒好きの夫をかかえ、その生活の辛苦はひと通りのことではなく、まことに哀れなありさまであった。
まさが七歳の明和五年(一七六八)から七年にかけての不作に続く飢饉(ききん)には、藩主から少々の「お救い米」は出たが、地下役人はいうに及ばず地酒屋などにも
「酒粕(かす)・米粕の少量ずつでも、飢え人に恵みてしのばせよ」
との申し渡しさえあった程の悪年続きで、女の細腕ではとうてい家計を支えることがむずかしく、まさはこの状態を幼い心にも見かねて、遊びたい盛りの年ごろから母の手助けをし、やがて年頃になっても人なみに衣服化粧に身を飾るでもなく、朝早くから海辺に魚介をあさり、昼は野に出て田畑を耕し、枯木を拾いまた、人に雇われなどして得た、わずかな賃金で父母の喜ぶものを買い求め、その喜ぶさまをみてわが喜びとし、また夜は昼間のはげしい仕事の疲れもいとわず、父母の手足背腰をなでたりさすったりし、やがてその寝息をうかがい、ぞうりを作りなわをなって明日の仕事の準備をし、夜ふけてはじめて床につくありさまであった。貧しい生活の中にも平和な日々を送っていたが、ふとしたことから母は重い眼病にかかり、良医の診療を受けたくても金はなく、まさは母の仕事を一手に引き受け、今までにも増して寝る間もおしみ働いたわずかな金を母の薬代にかえるなど、寸暇もいとわず、夜も介抱をし、母の眼病治療のため千辛万苦をした。
しかし一向に快方に向かわず、ただこの上は神仏におすがりする以外にはないと、かねて霊験あらたかと評判の高い下松の妙見様に、毎朝水浴をし身を清め、母の眼病治癒を祈願し、またある時は、妙見宮に三七、二十一日の願をかけた。その満願の日は殊のほかの大雪で、寒風肌(はだ)をさすばかりだったが、今日こそ日ごろの願いが成就し、母の眼病がなおる日だと、まだ夜の明けやらぬうち、海の荒れる深浦の浜から自分で小舟をあやつり下松に渡り、降り積む雪を踏みわけようやく中宮までたどりついた。
社前に額(ぬか)づき、母の大病平癒を祈願し、もと来た道を引き返したが、折からの雪もろともに吹き狂う妙見おろしの暴風に、笠はうばわれ、凍る雪路にぞうりは破れ、手足は感覚を失い、遂に身体はこごえすくんでそのまま雪の中に倒れ、人事不省におちいった。村人がそれを見つけ種々手当てを加え、その甲斐(かい)あってようやく蘇生(そせい)したほどであった。
このようなまさの命をかけての信心のかいもなく、母は病み始めてから六か年後、とうとう何もわからぬ盲目となった。
まさの悲嘆は、はたの見る目にも痛ましく、ただこの上は親の心を慰めるより外はないと、以前に増して孝養をつくし、骨身を惜しまず立ち働き、毎日細々と一家の生計を立てているうちに父の八助は、まさが四十四歳の文化二年(一八〇五)二月十一日、八十四歳の天寿を全うし、まさの孝養を感謝しつつ大往生をとげた。ついで母もまさが五十一歳の文化九年閏(一八一二)二月二十九日、まさの手厚い介抱を受けつつ、九十余歳の高齢をもってこの世を去った。先に父を失い、今また母と別れたまさの悲しみは、まことに涙をさそうばかりであった。
これよりさき、まさは両親在世中すすめる人があって一度夫を迎えたが、ほどなく夫はこの一家のくらしを見限って家を捨ててしまった。その後は父母への孝養ができにくいとして再び夫を迎えず、後世をとむらうには甥の宇吉がいるので心配ないと、その一生を独身で通したが、本来の優しい気質で父母につかえるとともに、暇を見つけては隣り近所の世話をよくし、常に苦労に負けぬ明るい笑顔で人に接し、だれからも親しまれていた。
このことはいつとはなしに広く世間に聞え、ついに藩主毛利斉房公のお耳に達し、その実否を正され取りあえず米一俵(ぴょう)を褒美(ほうび)として頂いたのは、まさが四十六才つまり父の死後二年後の文化四年(一八〇七)春三月のことであった。
やがて、まさ四十九歳の文化七年(一八一〇)二月十九日には、時の藩主毛利斉煕公よりその家敷を賜わり、宅前に「孝女まさ所」「文化七年庚午」と刻んだ花崗岩の彰徳碑を建てられた。
それは母死去二年前のことで、ここにおいて孝女のほまれは遠近に高く、人の鑑(かがみ)とたたえられるようになった。安政四年(一八五七)正月、藩主毛利敬親公御通過の際に花岡駅の勘場(かんば)(代官所)に召し出され、まさは一生毎年米一石宛を賜わるとの覚書(おぼえがき)を下され、「郡中の宝」と賞されている。その時まさは九十六歳であった。
藩主は続いて、徳山藩絵師「南陵」をその住居につかわし、まさの徳をながく後世に伝えるため肖像をえがかされた。(この原画は公集小学校に保存されている)
翌安政五年十月二十一日、重ねて表彰を受け褒美として永代苗字(みょうじ)を許され「正浦」と名乗ることになった。まさの「正」と深浦の「浦」をとったものと伝えられている。
重ね重ねの褒賞にまさの喜びは、いかばかりであっただろうか。しかし寄る年波には勝てず床(とこ)につき、翌七年(改元して万延元年)(一八六〇)閏三月二十三日、養子の宇吉にみとられて、その苦難と栄光の九十九歳の生涯を閉じた。
藩主は、なおも孝女の行跡を永く世に残さんとして「孝女満佐之墓」と刻んだ大きな自然石の墓碑を、この部落の人びとのねむる専修院の境内墓地の一隅(ぐう)に建立した。
その後明治七年(一八七四)、山口県庁より遺族宇吉に対し米二十俵を追賞され、また明治十八年、明治天皇本県行幸に際して表彰の光栄に浴している。
まさは、交通不便な僻地(へきち)に生まれ、身につけた学問もあるでもなく、また特別に親に仕える道を教えられたでもないけれど、幼い時からのその美しい心情はだれにも真似(まね)のできるものではなかったほどである。
明治三十年(一八九七)十月、旧末武南村民の有志が相謀(あいはか)り公集小学校の庭前に一大頌徳碑を建立した。その碑石は仙台の青石をとりよせ、台石は笠戸島沖浦の自然石を運び、碑面には旧藩主毛利元徳公の歌を、碑文は楫取素彦男爵(かとりもとひこだんしゃく)の撰文(せんぶん)、文字は明治の三筆といわれた一云巌谷修先生の筆になるものである。高さ二・二メートル、幅一・三七メートル、厚さ十六センチの立派な碑である。楫取素彦男爵は、旧萩藩大組儒者(じゅしゃ)「小田村伊之助」で慶応三年(一八六七)改名後は、宮中の顧問官(こもんかん)であった。