6、石碑(せきひ) (弘鴻(ひろひろし)) (閼伽井坊(あかいぼう))

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 花岡八幡宮参道の横、閼伽井坊前広場にあり、碑文は先生の国学の師「近藤清石」の撰(せん)で、書は先生の門人「大谷新二」(鴻城高校初代校長)の手になったもので、次のような碑文が花崗岩の自然石に彫ってある。
  弘鴻翁之碑
翁、氏は弘、名は鴻、鴻の訓ひろしなるを以て、尋石ともかけり。文政十二年(一八二九)周防国都濃郡花岡の里に生る。父は八右衛門という。世々旧藩の花岡邸の番所付なり。翁幼き時より数学を好み暦法にも通せり。慶応二年(一八六六)我が藩よこさ言にて国の境を塞かれ、他の国よりの物とては一つも到らて、わひあへるか中にも暦なければ、農(たみ)其時を失へり。翁甚(いた)くこれを慨(うれた)みて、暦をつくり、宰判の下代に頼みて、所務代官に見せけり。代官よろこひて、山口に持ち出て、当職きこえけれは、殿のみたまふこととなりて、志あつし。さりなから暦は私につくるへきものにあらす、農(たみ)の時を知るはかりに作り改めさせよと、仰せ下されけり。翁かしこまりて、さらに上りけれは、種蒔の栞と名つけ、すり物にして国内に頒たれぬ。これそ翁か世に知られたる初なりける。翌年山口に召されて山口明倫館数学教授松本源一につけられ、其業をたくすることとなりたれは、教授に就きて洋算をも学へり。後士籍に入りて、助教となり、後師範学校教諭をも兼ねぬ。明治四年(一八七一)電信線路測量のため、英人ラリケン山口に来りけれは、翁選まれて之に隨ひてありき、其の法を授かれり。五年学制はしめてしかれ、小学校にて筆算を教ふることとなれるに、その用書なかりけれは、翁やかて算法小学前編八冊、後編九冊を著せり。さるに県庁にては前編をのみ、摺本としけれは、翁はあかぬことに思ひ、自ら資を出して後編のうち四冊を彫りそへたり。十七年其職を退きたるに、教を乞ふ者少からねは、教室を設けて日文全と名つけ、かたはらはやくよりすけることとて語学歌学に思をよせて、其方さまの書をもあさりけり。かく若き時より老に至るまて、眼を甚く労しけれはにや、ついに盲目(めしい)となりて、明治三十六年(一九〇三)一月九日に身まかりぬ。翁七十余り五つになんありける。翁人となり正直にして、世に諛はす。なりかたちもつくろはねは、奥山人めきたり。されはさる先生なりとも知らさる者も多かりき。著したる書とも身のたけにひとしけれと、摺本となれるは算法小学、珠算新式、洋算例題答射、量地必携、詞の橋立、及ひ五十連音のわけのみ。若き時よりの弟子いくそはくなるか知られねと、日文舎(ひふみのや)の名簿すら二百余に及へりとそ、こたび何某ぬしたち思い立ちて、其の産土の花岡に碑を建て、己に其の在し世のことともをしるさしむ、己翁のことといひぬしたちの請といひかたかたいなむへきにあらねは、拙き筆をもわすれて、かくものしつるになん。
   国学の恩師「近藤清石」碑の右側面に
      かくわしき 名は花岡の花の春
          千万ふともうせしとそ思う
                大正三年甲寅十一月建之  有志者中
      左側面に
         終焉の歌
       皇産霊(みむすび)の 神のむすひの 紐(ひも)とけて
          けふよりもとの すみかにそ入る