十一代茂村の代に、この神霊を大内氏の本拠大内県(あかた)の氷上(ひかみ)に勧請し氏神ときめ氏寺興隆寺と一諸にした。妙見社の根本神社である降松の妙見社は氷上勧請後も一族鷲頭氏を鷲頭山妙見社に奉仕させ社殿の営繕などねんごろにさせた。
妙見大菩薩の根本霊地である鷲頭山妙見社に奉仕した鷲頭氏が、もろもろの武功により周防守護となり、鷲頭庄(しょう)を根拠地として殷盛(いんせい)を極め、土地の富力を活躍の資源として、大内氏の政治、軍事の中心地が鷲頭庄に樹立されたが、その覇業(はぎょう)も二十年で終り、やがて本宗大内弘世の手によって制覇されることとなった。
正平十年(一三五五)大内弘世は、鷲頭山妙見社に、社坊閼伽井坊(あかいぼう)、中ノ坊、宮ノ坊、宝樹坊、宝積坊、宝蔵坊、宝泉坊の七坊を建立し、閼伽井坊は別当で後に宮司坊と改まりのち更に鷲頭寺と改めた。また下宮を山麓(さんろく)の赤坂の地に建て、大内氏の隆盛と敬神の念により妙見社は更に充実した。代がかわり大内二十五代義弘は、明徳の乱における武功により、将軍足利義満より恩賞として山名氏の旧領紀伊(きい)、和泉(いずみ)の二国を賜ったので、後小松天皇の応永元年(一三九四)武運長久の宿願をもち五重塔、仁王門を寄進した。その後災害を受けたこともあったが、大内氏、毛利氏と尊崇(そんすう)が続き、堂塔の造営、伽藍(がらん)の修理も整い荘美もいよいよ加わり、この社地より遠く近く見える四囲の景観は実にすばらしく、すがすがしく、しばし俗世を忘れ霊地に遊ぶ思いにひたる。まことに周防第一の苑と称するにふさわしい境地で、昔は遠近からの参詣者も多く句会なども催されたという。