荒目の花崗岩製で、祠の中央に「稲虫明神」と刻まれている。建造の年代は、外側の風化が進んで文字もみえない。
稲作害虫の「うんか」に多くの場合「蝗(こう)」の字を用いる。また、この被害を「虫枯」ともいう。
推察するにこの神祠は、享保十七、十八年(一七三二・一七三三)に、萩本藩・徳山藩ともに、天候不順と蝗害のため、ほとんど収穫皆無の状態で大飢饉(ききん)となり、防長両国の飢餓人口十七万七千五百余人もあり、当時の全人口四十六万人からすれば、三分の一以上が病気あるいは死滅したといわれており、この年代の建立ではなかろうか。
平田開作村の田圃(たんぼ)が作られて約四十年の間に、幾度か塩害、干害に泣かされた年もあったであろうが、享保十七年のような事はいまだかってない大惨事であったであろう。
このような場合、神仏への祈祷か「さばい送り」の習俗の外になすべき術を知らなかった。当時藩からの命令もあり、村人は稲の葉を食い荒し稲を枯らす害虫を「たたり」だとしてその怒りの鎮(しず)まることを祈願したのであろう。この小さな神祠に村の人びとの必死の思いがこめられているように感じられる。
昔から、西市の真言宗正福寺と、神宮とが一年一回の御祈祷(ごきとう)をし、その護符を農家にくばり、それを稲田の水口(みずぐち)に祭り、稲虫駆除の守りとしたということである。
稲虫明神のことを土地の人びとは「うじもり様」といっている。
幕府の命により、稲虫駆除に鯨油の使用が認められたのは、蝗害などによる天明の大飢饉の後からである。