森重氏は、苗字・帯刀御免の豪家で、平田浄蓮寺よりも大きな造作であったという。
石祠のある位置は、むかしの森重屋敷跡の北西の隅にあたる。
西杜大明神とは、いかなる神かわからないが古い時代のものは「火伏せの神・秋葉大権現」であったともいわれている。何かの理由により後にまつりかえられたのであろう。
石殿の中央に 西杜大明神
外側に 願主 森重常春
沓屋純助
明治三年三月十七日
と並べて彫られている。また、笠木の落ちた鳥居の柱には
文化二年丑春 願主 森重甚左衛門道敏 (一八〇五)
と刻まれている。
この人は幕末の大庄屋で、花岡八幡宮の亀石の碑を建立した「原田庄左衛門」とは、近い親族にあたり、合武三島流の森重靭負(ゆきえ)や弟の曽門(そもん)とも縁者ということである。
明治初年から「寺子屋森重塾」を開設し、多くの子弟を教育した。
この塾が発展して、「平田小学校」→「公集小学校」となったのである。
ちなみに、沓屋純助は旧萩藩士で、後に公集小学校の教員を務めた人である。