8 石槌日動大権現社(いしづちにちどうだいごんげんしゃ) (末武石城山(すえたけいしじょうやま))

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 石城山は海抜およそ一八〇メートルほどの山で、さして高い山ではなく、登るには花岡口からも、藤光からも、下松方面からも細い道がある。
 古くは、白坂山(しらさかやま)とも白迫山(しらさこやま)ともいい、末武では白城山といったと聞いているが、今日一般的には石城山と土地の人はいっている。
 この山の頂上は、末武平野を、また遠く徳山方面まで、一望のもとにあつめた景勝の地である。
 ここに石槌(いしづち)日動大権現の石殿がある。野面石を、高さ一メートルあまりの四角に積み上げ、その上に花崗岩製の石殿がある。そばにひと抱えほどの松の木が二本、台風のために折られ無惨(むざん)に倒されている。
 石殿の内正面に
  石槌山日動大権現
 と刻まれ、石積の台の前にこれも荒目の花崗岩製の燈明石が建立され、その前面に、
  明治九年五月  奉燈  平中喜作
 とある。徳山市栗屋(くりや)の平中伊作氏によると、祖父喜作が石槌様を信仰し、四国から勧請してまつり、昔は彼岸ごろ多くの信者とともに、盛大におまつりしたということである。
 戦前幾年か参詣も途絶えていたが、最近また信仰者がふえ、毎月二十八日には白衣を着た信者が社前でご祈祷(きとう)されるということである。
 この石槌様には、石殿の前後に一対ずつの榊(さかき)が立ててある。後ろの一対は、石台におこもりの白竜様へのものであるという。

 

 この石城山は、西に谷をへだてて城山(じょうやま)に連なる山でやや高い山である。このあたりは昔激戦のあった所である。
 正平七年(一三五二)二月二十九日に、南朝方の「大内弘世」は「後醍醐天皇(ごだいごてんのう)」の皇子「常陸親王(ひたちしんのう)」を奉じて山口に兵をあげ、北朝方の「鷲頭弘直」を攻撃するために、鷲頭庄(現在の豊井・下松市街地・河内)に入り白坂山に陣をしき、ここに両軍のはげしい合戦がくりひろげられたのである。
 そのうち南朝方の大内弘世は、あまりにも雪と寒さがはげしいために、一時軍をひいて退いたが、同じ正平七年四月九日再び白坂山にて北軍鷲頭氏を攻めた。戦いはそれから四月二十九日まで続き、さらに、八月三日大内弘世は鷲頭弘直の弟、「散位貞弘」と戦っている。
 このような戦いも約二年を過ぎて、正平九年(一三五四)北軍鷲頭弘直も、ついに力及ばず南軍大内弘世の軍門にくだり、さしものはげしい戦いもようやく終わりをつげた。
  石城山はこの古戦場で、頂上の近い所に
   「白坂山古戦場」の石碑が建てられている。
 この時の戦いに戦死した武士の墓が「千人塚」といって、昔は城山のふもとにあったと伝えられるが、今はその影をみない。
 石槌日動大権現社が祭られたのは、それから五〇〇年後のことであるが、そのときにも何かがあってその霊を慰めるためもあったのかもしれない。