ところが、川を渡った西地区では古来からの里道で、人がようやく通れるぐらいの小道しかなく、自転車、自動車とだんだん交通機関が発達するに伴い非常に不便を感じることとなった。
さらに、西高垣からは徳山市久米譲羽(ゆずりは)部落に通じる重要な役目をもつ路線でもあり、時代の進展とともに、ぜひ道路の拡幅・新設が焦眉(しょうび)の急となったのである。
そこで、西高垣の人たちが相集い相語って、工事費は自分たちの負担として工事を始め、種々の困難を克服しようやく竣工をみたのである。
この道路は、旧路線から位置を変更し、新しく大きな橋をかけ自動車等も通行可能とし、さらに譲羽方面へも同じ幅員で通じたのである。
時に、昭和二十五年五月二十九日と記念碑にしるされており、発起人として
伊藤半助 鬼武義作 鬼武芳美 内山五一 岩根吉男
井上邦介 内山芳一 黒瀬慶一 岩根健槌 広中治作
の諸氏の名が記されている。
しかし、この橋も現在工事中の末武ダムが完成したら、折角の苦労も水没の運命にあり今昔(こんじゃく)の感がする。なお、記念碑はダムサイドの新設道路そばに移転設置されている。