所在地 下松市花岡
所有者 花岡八幡宮
長さ四・六メートル、重さ八〇キログラム。
安政六年(一八五九)藤原国綱の作
ゆえあって肥後細川藩を逐電した国綱は、毛利藩を頼りにしてこの地に来た。当時社会情勢は、安政の五ヵ国条約による開国によって騒然とし、長州藩を中心とした尊王攘夷(じょうい)の運動が強まりつつあった。
この様な中で、たまたま安政六年は五十年に一度の氏神(花岡八幡宮)の式年大祭にあたり、氏子中は尊王攘夷の運動を実現するため、国綱に「破邪の御太刀」を作るように依頼した。
そこで国綱は、弟子五名、手伝い二名をしたがえて、一トン以上の砂鉄を鍛えあげ、川を堰(せ)き止めやきも入れて作りあげた。太刀は正規の刀と同様に作られ、ヤスリもなかなか受けつけず、研きあげれば「におい」も出て、現在でも地の一面には鎚跡(つちあと)が残っている。
この太刀を花岡八幡宮の夏祭りのとき大勢でかついで、花岡の町を練り歩いたそうである。昭和三十年ごろまで約二十年間続き、三、四十名の若者が交代してかつぐ様は、とても勇壮であったといわれている。