
花岡八幡宮文書 市指定文化財 天正二十年(一五九二)花岡奉行宛 豊臣秀次(秀吉)公御朱印状

花岡八幡宮文書 その二 市指定文化財

花岡八幡宮文書 市指定有形文化財
右の文書をたどると八幡宮の経緯は、概略次の通りである。まず次に掲載の証判は天文十二年(一五四三)十一月五日付で陶隆房(晴賢)が地蔵院住持職を権大僧都祐教に安堵したことを証するものである。父興房の証判の旨により、同時に寺領の安堵も認めたものと思われる。
防州都濃郡末武郷地蔵院住持職事、太幻院殿(陶興房)任証判之旨領
掌訖者、早全修理勤行等、不可有知行相違之状如件
天文十二年十一月五日 中務少輔(陶)隆房 御判
祐教権大僧都
末武花岡地蔵院住持職之事、重円公可存知者也、仍状如件
天文拾九年十二月十四日 (陶隆房)御判計御名なし
但、前ニ有之御判と同前ニ候事
右の証判が記されたのは、天文十二年(一五四三)であるから、陶・大内の連合軍が下松を攻略し、そのため下松の豪族鷲頭氏が白坂山に於いて敗北してからおよそ百九十年後のことである。又陶隆房(晴賢)が、兵を遣し山口を襲い、大内義隆が深川大寧寺に自刃したのが、天文二十年(一五五一)であるから後者の判物は、その前年に位置する。起源は判然としないが、この頃末武郷地蔵院が陶氏の支配下にあったことを知りうるがこれより五年後の弘治元年(一五五五)には、毛利元就により当の陶隆房(晴賢)が厳島で自害している。

陶氏
毛利元就が更に兵を進めて下松に侵入し、鷲頭・下松・妙見山の三ケ所で戦ったのは弘治二年(一五五六)四月(『萩藩閥閲録』九十九之二)であって、その翌年八月には早くも八幡宮は、新領主毛利の保護を受けたことが明らかである。即ち毛利奉行衆六名の連署により弘治三年(一五五七)八月二十六日付で重喜公が別当(地蔵院)の住持職を仰せ付けられ同寺の寺領を安堵されている。史料を示そう。
周防国都濃郡末武花岡山地蔵院住持職之事、以近年平治(手次)重喜公ニ被仰付畢、全令寺務之、社役等有所勤之、可被相抱之由候者也、仍執達如件
弘治三年八月廿六日 兵衛(児玉就光) 尉 御判
右京(粟屋元親) 允(亮) 同
右衛門(児玉就忠) 尉(亮) 同
右京(国司元相) 尉(亮) 同
左京(赤川元保) 尉(亮) 同
左衛門大夫(桂元忠) 同
地蔵院
又明けて弘治四年(一五五八)には、隆元から同様住持職を裁許されている。
防州都濃郡末竹(武)地蔵院事、任先証令裁許畢者、守先例全可寺務之状如件
弘治四年正月廿七日 (毛利隆元)備中守 御判
当住重喜
次の如き多数の奉書御判物は、その後の毛利家と地蔵院の関係を知る史料である。元就・隆元・輝元と続いている。一部を掲載しよう。
御代々御奉書御判物写
為年頭之儀巻数并青銅百疋到来祝着候、猶期吉事候、恐々謹言
正月十九日 元就 御判
地蔵院
為歳暮之祝儀巻数一枝并樒柑一折来着候、祝着之至候、猶重畳期後喜候、恐々謹言
極月十七日 元就 御判
地蔵院回報
歳暮之祈念抽其節、巻数到来喜悦候、殊樒柑一目籠送越候、猶児玉四郎兵衛尉所ヨリ可申遣候、恐々勤言
十二月十六日 隆元 御判
地蔵院
為古暦之儀巻数並樒柑一折到来候、快然之至候、猶期明春候、恐々謹言
極月十七日 輝元 御判
地蔵院
為歳暮之儀巻数并樒柑一折到来候、祝着候、猶重々可申候、恐々謹言
極月十七日 輝元 御判
地蔵院
為歳暮之儀被申越候、殊樒柑一折到来祝着候、猶従児玉太郎三郎所可申候、謹言
十二月十六日 (毛利輝元)幸鶴 無判
地蔵院
書状披見候、花岡之於神前遂祈念、巻数御久米到来頂戴候、并一種祝着之至候、猶重畳可申候、恐々謹言
五月五日 輝元 御判
地蔵院
為歳暮之儀御巻数并一折到来令祝着候、恐々謹言
十二月十八日 輝元 御判
地蔵院
為歳暮之儀巻数并一折到来祝着之至候、猶巨細児玉四郎兵衛尉可申候、恐々謹言
十二月十七日 輝元 御判
地蔵院
以上九通
右長五寸程の手紙ニて御座候事
更に慶長四年(一五九九)二月十日付の目録案書には、合わせて一三六石六斗二升三合が打渡され、又社坊九ケ寺の名も確認される。毛利氏「八箇国時代」の都濃郡内給領主一覧によると打渡しは、一三六石とされ、これと符合するほか同時代近郷では、下松の妙見社も九〇石の社領を有している。これは遠石八幡宮二〇五石、長穂竜文寺二八九石、富田建咲院一二六石、鹿野漢陽寺三一石と並ぶ厚い優遇である。又花岡八幡宮については、天正十七年(一五八九)の「検地打渡坪付」からその領地が末武庄に集中していることも確認される。
防州都濃郡末武花岡八幡宮寺社領目録案書事
一三拾弐石弐斗弐升三合
右年中三拾三度之御祭方也
一五石
右諸営方之分
一拾石
右九月十五日御祭礼被成入目、地蔵院調之
一三拾石弐斗八升八合 地蔵院領
一七石六斗壱升 楊林坊分
一八石 常福坊分
一五石四斗三升八合 千手院分
一四石五斗 閼伽井坊分
一三石八升弐合 香禅寺分
一弐石九斗 惣持坊分
一弐石九斗八升九合 長福寺分
一三石壱斗壱升三合 関善坊分
已上六拾七石九斗壱升五合 坊領分
一弐拾石六斗八升壱合 諸社官給
并に百三拾六石六斗弐升三合
(国司備後守)(山田)
右は国 備山 吉兵衛以御究之前附立所申如件
慶長四年
二月十日 地蔵院
やや後世のことであるが江戸中・末期の八幡宮の寺社建築について述べよう。『寺社由来』の成立した寛保元辛酉(一七四一)九月には御社について、
(前略)本社三間四面、桐の頬四方半間、釣屋弐間三間、拝殿三間四面、右従公儀度々造営被仰付候、尤箱棟拝殿破風御拝鬼板御紋付来候、本社こけら葺釣屋瓦葺拝殿茅葺ニて御座候事、とし、
神楽殿は弐間三間茅葺、旅殿は弐間半ニ五間茅葺。
としている。
『防長風土注進案』の成立した江戸末期(天保十二年・一八四一・の藩命によるものであるが、成稿の年代は判然としない)には、社坊は地蔵院・閼伽井坊の二坊のみとなり、大宮司村上丹後との連署により
神殿三間四面曾木葺、釣屋三間ニ九間、拝殿三間ニ四間いづれも本瓦葺也、御拝壱丈弐尺入弐間曾木葺、御普請入目之儀ハ公米銀被立下候事、神楽殿絵馬堂共ニ弐ケ所弐間ニ四間、神輿庫壱ケ所弐間ニ三間半、随神門壱ケ所弐間半ニ弐間、鐘楼壱ケ所八尺四方、常灯明堂壱ケ所五尺四方いづれも屋禰瓦葺、普請之儀ハ氏子中より仕来候事
と報告されている。
さて地蔵院について、『寺社由来』(寛延二年・一七四九)は、当寺屋敷内に、
寺本間四間半梁五間半、三方壱間の外、間数八畳三間、六畳三間、くり弐間半ニ四間半御座候事
と記している。又江戸末期に上申せしめた前掲『防長風土注進案』は同寺について次の如く記している。
本堂 桁行七間梁行七間惣茅葺之事
庫裏 桁行四間梁行四間茅葺之事
本門 薬醫門壱丈壱尺ニ壱丈壱尺惣屋禰本瓦葺、
両袖小門五尺宛之事
中門 七尺ニ七尺惣屋禰本瓦葺之事
土蔵 弐ケ所
内壱ケ所桁行三間梁行弐間惣屋禰勝手瓦葺、
霊寶物并八幡宮神事諸道具入、壱ケ所ハ桁行
六間梁行三間勝手瓦葺之事
長屋 壱ケ所桁行四間半梁行弐間半惣屋禰わら葺之事
現在境内には国指定重要文化財の多宝塔があるが、旧社坊中で現存する唯一の閼伽井坊(飛地(トビチ))の管理下に置かれている。この塔は室町中・末期の建立と推考され、方三間、屋根は杮葺、周囲に廻椽(まわりぶち)を付す。内部四天柱には、天井長押(なげし)を巡らし鏡天井で須弥壇には、本尊金剛界大日如来が安置されている。

閼伽井坊宝塔 国指定重要文化財 方三間二重の塔 屋根杮葺 総高一三m 本尊金剛界大日如来

花岡八幡宮 閼伽井坊多宝塔 正面図 『山口県文化財要録』(山口県教育委員会)

花岡八幡宮 閼伽井坊多宝塔 平面図 (同上)

花岡八幡宮 多宝塔碑 昭和四年造立
尚塔には、元禄十三年(一七〇〇)、享保八年(一七二三)、延享元年(一七四四)、宝暦七年(一七五七)、安永六年(一七七七)等の修復棟札が遺存し、現在附(つけたり)として同様に指定されている。
尚右の内宝暦期の棟札の銘文を示せば次の通りである。


閼伽井坊多宝塔 棟札 国指定重要文化財
このようにして見ると八幡宮は、古い来歴の故に各時代にわたりそれぞれの領主からは寺領を安堵され、又庶民からは、厚い信仰を受けて安定した発展をしている。別当地蔵院がその命運を分けたのは、慶応三年(一八六七)朝廷による王政復古の大号令であり、他の一つは、火災に遭遇したことであった。翌明治元年(一八六八)には、全国の神社から仏教色を排除するため、神仏の分離を命じている。かかる布達は、神祇官の設立等により神道国教化政策を進める為であった。明治六年(一八七三)には山口県内の神社に対し、社格の決定がなされ、神道は他宗の上位に位置づけ国による保護政策を打出している。
『社寺改正録』によると明治二年(一八六九)十月八幡宮別当地蔵院から、次の如き願書が、庄屋を経由して勘場に提出されている。
御願申上候事
今般従朝廷神仏混淆之儀御改、別当社僧還俗、神主社人等之称号ニ転職候様
被仰出候ニ付奉得其旨候、身柄還俗仕、以神道致奉仕度奉存候、
就ては拙僧事都野正記と改名仕度奉存候間、此段宜敷被成御沙汰可被下候、以上。
都濃郡華丘八幡宮別当職
已ノ十月
御庄屋佐藤七之進殿 地蔵院
この願書は、同年十一月十五日をもって藩府の認可するところとなり、中世以来の古い歴史に幕が下され火災に遭ったとは云え地蔵院はついに廃寺に至ったのである。

花岡八幡宮扁額 市指定文化財 裏面に 壱殿[防州末武庄新八幡宮 長享三(一四八九)[己酉]九月十一日願主祐印] の銘文が在り豊後浴から現在地への遷座を証する史料である。

花岡八幡宮所蔵 鰐口 市指定文化財寛永元年(一六二四)造 面径三六・三cm 面厚一七・八cm 銘文に検討の余地がある。

花岡八幡宮 破邪の御太刀 市指定文化財 刃渡三四五・五cm 幅一三cm 厚さ三cm 重量七五kg

花岡八幡宮 神成石

花岡八幡宮裏参道 伝閼伽井の井戸(昭和四十年頃)