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(三) 拝殿右前方枯山水庭

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 拝殿に向って、参道右側のゆるやかな自然勾配地に鶴・亀と三神石を配した枯山水庭が在る。鶴・亀両石組は、写実的に構成されており、これより十数mの距離を経て、小大小の三石を山岳(蓬莱山)風に組んだ石組が三神石(寺院の場合は三尊石)である。(註一)

鶴亀石組(昭和四十三年八月撮影) 手前亀石組・後方鶴石組

 まず亀石組は江戸時代の『築山庭造伝』前編北村援琴享保二十年(一七三五)に著された通りで、亀頭石・亀甲石・両手石・両脚石をことごとくそろえて極めて写実的である。両手石・両脚石は小さいもののよく歴史の風雪にたえ、今日も健在であるが尾崎石は存在しない。
 次に鶴石組の写実的構成は、正確には不可能であろうが、中央に大胆な石を一石立て、その右に鶴首石、左前方に羽石を配して立鶴を意図したようである。この鶴石組を構成する羽石二枚の内、一枚が置かれていたと思われる部分に、現在は、享和二年(一八〇二)在銘の灯籠が建立されている。この羽石と思われる石は他所に移動されているが後述するように健在である。(写真・図面参照)折を見て羽石一枚を旧地へ復元願いたいものである。

鶴石組・左前方に享和二年建立の灯籠が進入し、羽石一石は一〇mほど北へ移されている。(昭和四十三年八月撮影)

 この鶴・亀石組から、十数m離れた小丘に、三尊(神)式手法による数個の石組がある。庭の寓意は鑑賞する者によって意見が異って当然であるが、いずれにせよ、右の三神石が鶴亀石組より極端に離され、この間に(庭の中央部に)は石一つなく、自然の表面そのままにされていることに注目すべきである。このように中央部にあえて空白をとったのは、勿論作者の意図あってのことである。注意すべきことは、右の三神石が前述の如く十数mの距離をもち乍らも、ほぼ亀石組(亀甲石)の後方直線上に位置していることで、おそらく「亀は俗界の方向に向く」(『築山庭造伝』前編北村援琴・上原敬二序文)とする俗説にしたがったのであろう。換言すれば、亀と逆の方向に一つの思想世界を山岳風(蓬莱山)に表現したものであろう。この庭が、神社境内の庭園であること、この局部が三石であること、江戸末期等の時代背景をあわせ推考するに鶴亀による氏子への吉祥と、三神石をもって具体的には、神道思想を力説したものと考えられる。

三神石 石組(昭和四十四年八月撮影) 松の巨木は現在は不在である。


三神石局部(昭和四十三年八月撮影) 神社境内に於ける三神石の遺構は我国唯一であろう。側面より撮影。

 別の信仰ではあるが、仏教では、浄土との距離を十万億仏土と定義している。隔つ無限の距離を強調したものであるが、茲光を仰ぐものには目前に観見される世界であるという。この内意を強調するに作者は緻密な計画を示している。具体的には、前述の如く中央に空白をとって距離を離し、又広大無辺な世界を表現するのに、鶴・亀島に対して三神石は比較的小さな石を使用している。遠近法を意識して俗界(観賞地点)からの離つ距離を強調するためと思われる。更に思考すれば三神石の構成される部分の敷地がやや狭まっており、かつ若干後退していることも注意すべきである。これは造庭以前の地形ではなく、作者の遠近法による江戸時代特有の一連の演出と見るべきであり又このことが、庭園構成上重要な役割を果しているのである。
 平面図に示したように、間口に対して奥行が浅く奥部(三神石付近)の敷地幅を狭め、又後退させる地割手法は、かつての庭園意匠にはなかった一種の透視的遠近法の導入である。この手法は一般に小堀遠州かその一派の考案とされていて、南禅寺方丈南庭・大徳寺孤蓬庵書院南庭・大徳寺本坊東庭・同南庭に共通する形式である。
 最後に三庭園の内二庭園が、参道の石灯籠裏側に造られている(図面参照)ことは、いかにも不自然である。これは吉永義信先生から指摘をいただいたものであるが、このことに関し、私はむしろ作庭時は、数基しかなかった石灯籠が、時代が降るにつれて増加し、ついに現在(図面参照)のようになったものと考えている。つまりその部分だけ庭園敷地が減少し、景観をさえぎる結果となった。先に述べたように鶴石組前方六〇cmの所に享和二年(一八〇二)在銘の灯籠が配置されているが、鶴石組の役石の内、前方に置かれた羽石一石が存在しないのは、この折取除かれたと見て間違いない。現にこの山形の羽石は一〇m余り北へ移動されて土止めに利用されている。羽石は薄く上部山形の特種な形状の石を使用しており、確認が可能である。(写真参照)

鶴の羽石一枚(中央)が一〇m程北へ移動しているが写真の通り健在である。


拝殿前方参道横庭園略図 昭和40年8月調査

 (註一)
   平安時代の庭園様式を技術的に記した我国最古の書に『作庭記』が在る。その立石口伝の項に「石をたつるに、三尊仏の石はたち、品文字の石はふす常事也。」と記されるのが、三尊石に関する初見である。その起りは、釈迦三尊、阿弥三尊等の三尊を石組で表現したものであろうが降って『夢窓流治庭』には、「山水役石居所之伝」の項に三尊石について、仏家にては三尊石、神家にては三神石と云ふと記している。又後世青森地方では大石武学一派による庭に三神石が盛んに組まれている。ところで神社境内に於ける三神石遺構はめずらしく、花岡八幡宮の三神石組が我国唯一であろう。