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(六) 築造年代

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 前述の如く鶴亀の枯山水庭は、奥行の浅い長方形の敷地に遠近法を駆使しており、特に亀石組が極めて写実的であって、江戸末期を思わせるがいま少し時代を絞ることは出来ないであろうか。
 まず、花岡八幡宮に所蔵される絵馬(ご祭礼図・下松市指定文化財)に注目したい。この絵馬は一説に寛政九年(一七九七)毛利徳山藩の絵師朝倉南陵が門弟四名に描かせたものと伝えている。現在の絵馬は、大正十二年樅の木に復元・縦一八三cm横三八四cmである。

八幡宮ご祭礼図 (花岡八幡宮所蔵 原図・部分)

 この絵馬には境内三庭園がいずれも描かれていないので、作庭は寛政九年(一七九七)以降とも解されるが、絵馬はご神幸にともなう奉納諸行事を描くことを主目的としており、境内の景観をどの程度正確に描いたかは疑問である。更に一説に朝倉南陵が描かせたとされる門弟の内の一人震陵は南陵の子として寛政十年(一七九八)に出生しはじめ直逞と称したことが明らかである。寛政十年は絵馬作成の翌年であるから、震陵が事実であれば、今後研究の余地を残すこととなる。このような問題はあるもののひとまず庭園は絵馬作成以降としておこう。
 次に鶴石組を検討しよう。鶴島は、立ち鶴を構えている。亀石組ほど写実的ではないが、前述のように前方に灯籠を建立した際羽石の内一枚が、取除かれたことは、疑う余地がないので、前方の灯籠が後世入れ替っていないと仮定すれば、享和二壬戌(一八〇二)九月吉日松村助右衛門の灯籠刻銘から享和二年には既に石組が存在していたことになる。確証に及ばないが、右の二件から作庭は、ひとまず絵馬作成の寛政九年(一七九七)頃から享和二年(一八〇二)までの間に築造されたと推定する事が可能であろう。他の二庭も江戸末期の臭味を遺している。