木村翁の庭 (山田孝太郎氏所蔵)
今市 正覚寺庭園 (山田孝太郎氏所蔵)
『築山庭造伝』後編 籬島軒秋里(文政十一年・一八二八)
景色図は和紙に強くやや太い墨線で屈曲をもって輪郭を描き、水等にわずかな着色をなしている。穂先がにぶくやや粗放にすら見えるのは、作庭後矢立てによるスケッチのためであろうか。だが有難いことに描写は写実的で極めて正確であり、若干の誇張をのぞき装飾的、芸術的表現はなされていない。絵図は署名、印、年紀を欠いているので直ちに筆者は断定しがたいが木村翁が作庭のつど画いていた景色絵をそのまま一冊(和綴)に綴ったものに相違ないであろう。又この景色図が現在までに木版刷等にふされた形跡はない。
ここに描かれた二十三庭は同一作者によるものであり、したがってこれを調査検討することにより、当時の地方庭園の特徴を究明し得たとすることは、やや軽卒であろうが当時の庭園数は、おそらく一ケ村に数庭に満たぬものであろうし、十数ケ村における二十三庭の築造は、当時の庭園数からすれば、相当の比率を占めていたと推定される。
又築造後とかく小庭園にありがちな人工的変化、改変損傷等を考えれば、このような絵図は何人も加筆修正を加えることが出来ず、又成長を前提とする不安定な樹木に至るまで、当時の姿を正確に伝えるものである。
図示された庭はいずれも小規模で趣味的な色が濃く、江戸末期らしく秘伝書にしたがい、これを適当に取捨し築造したものである。この「景色図」により江戸末期県下に於ける地方庭園の水準とその特徴、又この地方への庭園文化の伝播等をかなり明確にすることが出来ると考えるものである。
庭園史の研究は戦後長足の進歩をとげたが、これらはいずれも貴族、寺院、大名等各時代に於ける特権階級の庭を対象としての研究である。勿論それは遺構、文献等の有無にもよるのであろうが、ここに提出した資料の如く、純粋に地方民家の庭を対象とすることも、又重要な郷土史研究の一部である。
「景色図」に描かれた二十三庭の内、現在の下松市域内に作庭されたものが五庭ある。その内三庭は寺院庭園であり、他の二庭は純粋に民家の庭である。本論は、これら市内の五庭園を中心に、庭園経営者の経緯、寺院の由緒等についてもあわせて述べてみたいと思う。