又『防長風土注進案』(天保十三年~弘化三年)には、桃林寺の項で
「当寺之儀ハ先年及中絶、桃林寺と申観音堂計有之、元禄十三辰ノ年御庄屋善左衛門再建立之御願申上、御免許之上小周防村渓月院十六世石峯和尚開山ニ而長州大寧寺弟子上藍和尚二世中興ニ而建立仕、」
(以下略)
と記している。いずれにせよ庄屋である当家の強力な関与があったものと思われる。
寛延二年(一七四九)の『地下上申』には、小名の一つに光時を挙げ、
「右之内光時と申ハ、往古九州侍大木主計と申者浪人仕住居致候ニ付、其者之名乗を光時と名乗申たる由ニ付今以光時と屋敷を相唱へ、右大木之末類御百姓遂居申候事」
と述べている。
又『防長風土注進案』にも
「右小村之内ニ伊生丸太郎丸四郎丸六郎丸申所有之
往古高山と申所ニ當村之地頭職光井亀千代と申人居住被致候を便り、九州之浪人大木主計光時と申者暫ク足を留候由、大木之子供多数有之、所々ニ居住仕候名を委地名ニ唱へ申候由申伝候」
としてほぼ同様のことを述べている。伝承を後世に至って記したものではあるが、地名と大木光時の関係をこのように伝えていることは当家の由緒と村での勢力を物語るものであろう。
『防長風土注進案』 都濃郡切山村地理志(部分) 原本成立は天保十三年頃 大木光時について述べている