原田家は、古い時代現在の専明寺附近に居住していたと伝える。のち現在の野見山内科医院附近(末武九七〇番地)に移住するが、寛文五年(一六六五)の庄屋役以後宝暦十一年(一七六一)には大庄屋等も勤めた(同家系譜)家柄である。
又花岡八幡宮別当(地蔵院)の義詮宥信法印は、原田家の出身であって寛政三年辛亥(一七九一)二月二十一日に寂しているがその墓石(地上七尺で市内に於ける無縫塔・卵塔中最大)には次の銘文が在る。
遺弟子分國寺住侶
法印宥海畔睇建焉
生年六十六歳生國
防州末武庄原田氏
旧地蔵院前方の巨大な石碑(地上一丈四尺三寸・通称亀石)は八幡宮大宮司村上基徳のすすめで原田庄左衛門が文化十一年六月に建立したもので、当家の往時を物語る史料の一つといえよう。(石造物の項参照)広大な屋敷を有していた庄左衛門は、はじめ信昌を称し帯刀御免で弘化三年(一八四六)に死去(同家系譜)しているのでこの頃までに庭は完成していたと考えてよいであろう。
原田家の当時の屋敷は、比較的明瞭であるが、彼の死後明治維新にかけて没落し「景色図」に描かれた築地塀、平重門は既にその痕跡すら存在しない。したがって主要な建造物の位置も判然としないが、現在の県道に近い附近と伝えられており、庭園も又これに附随していたと推定される。