さて「景色図」には門、寺の他に右の観音堂が記入されており、庭園とともに、その配置関係を知ることが出来る。即ち門を入ると正面に本堂があり、この左側やや離れた処に観音堂を配置し、本堂と観音堂は当時廊下によって繋がれていた。この廊下から庭園を観賞すれば、向って右奥に滝を構え、この後方に若干の土盛りをなしてその中央に正覚石を置いている。滝は流れて池に入り、池のほぼ中央には石橋を架け、寺門を入った者はこの橋を渡って観音堂に入ることが出来る。庭園は浄念寺、光円寺と同一様式で前掲『築山庭造伝』後編「遠州浜松鴨井寺裏之間之庭」の図や「草之築山之全図」を取捨しての築造であろう。滝部には相当の立石を使い、池汀は石の使用は少なく、立石や配石の取合わせには充分な考慮が払われている。池の水は動的で水量にめぐまれ、植物も適処に使用されているが、刈込等の抽象的整枝は認められない。寺院庭園に「正覚石」を配置し、信仰を強調するなど庭は極めて説得的であるが、下松市内の寺院三庭園に全く同一の寓意を、且つ同一の様式で構成することは、いかにも平凡である。何か他に創作的要素を導入したいと思うのは、私の私的な観賞論であろうか。いや伝統的、定型的手法に拘束される江戸末期庭園に於いて、飛躍的な創作を求めることは、困難なことであったかもしれない。

白谷山 分国寺庭 (山田孝太郎氏所蔵)

『築山庭造伝』後編 籬島軒秋里 (文政十一年・一八二八) 遠州浜松 鴨井寺裏之間之図
禅定寺山中にある分国寺本堂、観音堂、庭園跡は、現在水田になってその姿をとどめない。ただ山裾に破損せる小池庭を残しているが、「景色図」の庭ではなかろう。現在ではその痕跡すら認められないが、耕作者の話ではかつては、旧時の観音堂、本堂の基礎石、築地塀の一部を残していたといい、更に現在残る門前石段等を合わせて比較するに、現在山裾に残る小池は当時観音堂、本堂等建造物の裏にあたる場所である。したがって「景色図」に描かれた観音堂前方の池庭とは別のものであろう。ただ滝石組、池の形中央の石橋等確かに絵図と符合する点もあるが、これは一旦観音堂前方に作庭せるものを、後世導水等の不便から山裾に移築したためかもしれない。