絵図に描かれた二十三庭中純粋な石庭は一庭も存在せず、植物は全庭に使用されている。このように植木に愛着を示し乍ら生垣はいささかもなく、又刈込と明確に判定出来るものもない。この頃京都に於ては既に刈込の種類も多く、江戸中期の頃には相当地方へ浸透していたはずであるが、我々の予想に反し絵図から推測するかぎり江戸末期に至るも生垣、刈込はこの地方に於いて、顕著な流行を示すに至らなかったようである。
次に使用された植種について、その樹姿からは松、蘇鉄の他は判然としないが、常緑、落葉樹、針葉樹等全般に亘り中でも紅梅、つつじ、もっこく、つげは名称が小さく絵図に記入されていて明確である。
特に蘇鉄はその特殊な樹姿から二十三庭中十二庭計三十一株が明確に描かれており、中には老樹の風格を呈するもの、原田庄左衛門庭の如く一庭に七、八ケ所植栽された庭もあり、当時蘇鉄の顕著な流行を思わせるものがある。『蔭凉軒日録』長享二年(一四八八)九月十六日の項には「興文首話云 大内庭ニソテツト云草アリ 自高麗来 カフ(株)ヨリ葉出南一間ニハハカルホトナリ センマイノ大ナルエウナ者也 若公方様方御庭ニウエサセラレハ進上可レ仕由白」と記され貴重品として将軍家の庭に献上を申し出ている。室町中期大内庭にあって貴重品とされた蘇鉄は、江戸末期の頃になると同じ山口県地方に於いて庶民庭園に普及流行したことになる。この間の旺盛な蘇鉄の繁殖を想像するに充分である。この蘇鉄の意匠上の植栽方法については、西本願寺大書院庭、桂離宮庭等のように孤立した一群を形作るでもなく、又江戸中、末期地方各地の寺院の方丈書院等に流行した定型庭園に於ける如く、築山の中腹の肩に植える(註一)等の傾向すらない。感興のおもむくまま自然にまかせ、自由に植栽したものでもあろうか。
(註一)古庭園のみかた 吉川 需 第一法規出版 一二五頁