このように、現在の芸術論から峻烈な批判を加える傾向があるが、ようやく庶民へ伝播した当時の時代背景もあわせて検討してほしいものである。例えば正覚石を据え、白砂を敷くことで庭園経営者は、自家の吉祥を願い仏への因縁を求めて作庭の意欲をもやしたのである。つまり築造は現在のように景観目的のみではなく、家運隆盛をも期待する重要な意味を有していた。又秘伝書に従うことは、初期に於いては、心理的安堵をもたらす必須要件であったが、その副作用として定型化を結果することになったのである。造園史では、この時代を頽廃期と称しているが、このように考えれば、仏説・迷信がかった点も当時としては無理のないことである。現在の芸術論をもってこの書や庭を批判するよりも、当時の社会事情にあって、二十三庭の正確な景色図を後世にのこしてくれた木村翁の功績に深く謝意を表したいと思う。当時の庶民庭園は芸術作品としてではなく、広く生活文化資料の一つとして検討すべきが妥当ではないであろうか。
『築山庭造伝』前編 北村援琴(享保二十年・一七三五)
木村翁は本図巻末に当時流布した秘伝書『築山庭造伝』前編 北村援琴(享保二十年・一七三五)より抜粋し
巻末に次の如き文をつけ加えている。 (その一)
同上 (その二)
同上 (その三)
他に一つ江戸後期庭園の特徴として、前述の如く庶民階級への庭園文化の普及を挙げている。勿論この場合、庶民階級とは一部の富豪階級のみで、その対象範囲は庄屋、大庄屋、等の所謂上層農民にとどまるものである。下松市域内の原田庄左衛門家、大木萬蔵家については詳しく述べたが、このことは下松に限ったことではない。図示した大道理村田中家、三つ尾村坂本家、今市城家、等いずれもその地方では、当時由緒を誇った家々である。
今市 城家庭園 (山田孝太郎氏所蔵)
大道理村 田中虎太郎庭 (山田孝太郎氏所蔵)
遺構調査のため「景色図」に示された二十三庭の内十九庭の現地踏査を既に完了したが、今市正覚寺に一群の石組をとどめる(池泉等は破壊)のみで、他はその一部すら遺存しない。木村翁築造後百年作者の予想だにしなかったことである。
(昭和四十八年十二月)