ビューア該当ページ

(二) 創設の経緯

67 ~ 69 / 541ページ
 修学院離宮は、高野川の東北雲母坂の西麓にある。西北に鞍馬、西に松ヶ崎をひかえ、西南は、京洛一帯から五畿の山川を望む景勝地である。
 修学院は一条天皇(九八六~一〇一〇)の頃、播磨守佐伯公行が天台宗の智観僧正(一〇一二年寂)に帰依して一寺とし、永延年中(九八七~九八八)には官寺ともなったが、のち廃寺となり地名のみ遺存していたのである。(『扶桑京華志』巻之三 『山城名跡巡行志』第三)
 さて修学院御茶屋は、徳川幕府の圧政に怒りと絶望をもって、にわかに譲位された後水尾上皇がこの地に営まれた山荘である。上皇は後陽成天皇の第三皇子「桂離宮」造営の智仁親王の甥にあたり、譲位後は禅門に帰依し「円浄」と号され、仏道と風趣の生活を過されたようである。一方幕府は上皇の御憤りを鎮めるため、政略的経済的援助をもなし、御茶屋創設もその一つのあらわれと見てよいであろう。

後水尾上皇像(大覚寺所蔵)


後水尾上皇宸翰和漢連句 (鹿苑寺所蔵)

 寛永十八年(一六四一)七月十四日後水尾上皇は、側近者を鹿苑寺につかわして鳳林承章に衣笠山麓方面に適地を探し求められたのを始めとして、その後も熱心に諸所を物色されたようである。
 かくて承応四年(一六五五)三月十三日長谷殿へ御幸の際、朝かゆを召し上るため、皇女梅宮の草庵に立寄られ(註一)早春の風景がことのほかお気に召され、ついに同年八月この地に大規模な山荘築造を進められることとなったのである。
 その後万治二年(一六五九)四月十四日に至り、はじめて修学院の内の御殿で「仙洞御振舞」があり(註二)工事は下の御茶屋より上の御茶屋へと、次第に完成していったのである。

修学院御茶屋絵図 宝永年中 (宮内庁書陵部所蔵)

 (註一)『隔蓂記』鳳林承章明歴元年三月十三日の条
 (註二)『隔蓂記』鳳林承章万治二年四月十四日の条