
修学院離宮下御茶屋之図と和歌二首 (花岡八幡宮所蔵)
後水尾上皇が延宝八年(一六八〇)八十五才をもって崩御されるまで、いくたびとなく駕を寄せられたこの御茶屋も、崩御後は数度の荒廃を迎えているために創始の建築物のほとんどが失われ、改造復興を機会に、武家趣味の侵入をも余儀なくされている。
以下各時代の古絵図(主として宮内庁書陵部所蔵)に合わせ、江戸末期の花岡八幡宮の絵図を比較し、変遷のあとをたどり、特に顕著な変化のある部分を以下取りあげて紹介したいと思う。
下御茶屋の主要建物である「寿月観」は、西池の東北側に石垣を造り、この上に建てたものであるが、この寿月観に入る御幸門は、後水尾時代池の西南にあったものを、霊元上皇のころより現在の西正面に改変している。このため遣水(滝口)は西向から北向へ、更に苑路も改造を余儀なくされた。(註一)花岡八幡宮の絵図には「表惣門塀重門」を通り「御成御門」より入り「御中門」を経て「御輿寄」に至る順序で描かれているがこれは御幸門、苑路を改造後のものである。

修学院離宮下御茶屋之図(部分・花岡八幡宮所蔵) (右図と下図の池泉苑路の変化に注目されたい)

下御茶屋池泉変遷図(四図)は『京都名園記』久恒秀治より収録

下御茶屋 寿月観扁額 後水尾上皇宸筆

中御茶屋 楽只軒扁額 後水尾上皇宸筆
享保十二年の「修学院御茶屋指図」(宮内庁書陵部蔵)によれば、西池の北側に堤様の岬ができ、池の北西隅の橋よりこの岬を通り、五畳の茶室の西下で遣水を渡り、遣水の北側に沿った苑路を昇り、寿月観東南の白砂の平坦部にでるようになった。(註二)この改造は霊元上皇が享保六年より十七年に崩ぜられるまでの間に修学院へ御幸された一九回の内の三度目の後に行われている。(註三)
絵図中創始時代の寿月観は文政七年の絵図に「此所寿月観御建物跡」の書込みが見られ一時失われている。この寿月観はその後ほぼ昔の姿に復旧されているが、花岡八幡宮絵図に記されている建物の内「御湯殿」「御清所」「御茶番居所」等は現在もその姿をとどめない。
(註一)変遷図参照 尚本図は『京都名園記』中巻久恒秀治著より一部を引用した。花岡八幡宮所蔵絵図と離宮の各指図を比較、検討すれば、御茶屋の変遷、改造の経緯にあわせて、その年代を明瞭にすることが可能である。
(註二)『京都名園記』中巻 久恒秀治著
(註三)『京都名園記』中巻 久恒秀治著