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(五) 上御茶屋

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修学院離宮上御茶屋之図 (花岡八幡宮所蔵)

 上・下御茶屋の連絡路は、花岡八幡宮の絵図にわずかに描かれている如く、細い田の畦道であった。その後明治十八年宮内省の管理に移された際通路が拡張され、更に同二十四年に至ってその両側に松を植え、現在の体裁をととのえたものである。八幡宮の絵図に松並木が描かれていないのは、このためである。
 上御茶屋の大池泉を八幡宮の絵図には「御池」とのみ記されているが、一般は「浴竜池」と称している。これは渓流を人工の大堰堤で以ってせきとめたもので、岩肌の地上に露出した部分が竜の背の如く、見えるからであるという。
 又「西浜」の西外側の斜面に在る大刈込も築造当時のものではなく、天和、宝永の絵図には石垣が描かれるのみで刈込はなく、又八幡宮の絵図にも刈込垣らしきものは描かれていない。
 「隣雲亭」は延宝五年(一六七七)山火事により焼亡したものを、文政七年旧規により復興したものである。同位置であるが、間取りは少し変更されている。
 「窮邃亭」のある中島は東に「楓橋」北西に「土橋」を架け、この西側に「止々斎」があったが、八幡宮の絵図には既に「止々斎跡」と記入されている。これは宝永五年京都大火の後、仙洞御所に移されたためで、現在は礎石が遺っているだけである。
 中島より「万松塢」にかかる「千歳橋」(八幡宮絵図には「石橋」とのみ記されている)は文政年中、徳川家斎が叙位の礼として光格上皇の御幸を仰ぐため行った修理の際京都所司代内藤紀伊守信敦が独断で寄進したものと伝え、八幡宮絵図にも明確に描かれている。又「千貫の松」と称する巨松も同様文政七年(一八二四)につけ加えたものであるが、これらは自然風景を自在に駆使する修学院には不調和で、いかにも武家趣味であり、加えて島が「神仙島」としての意義を失ったことは、現在多くの人々が指摘するところである。

浴竜池より千歳橋(左)を望む。

 「窮邃軒」は現在まで度々補修されており、間取に若干の変更があるが、創始当時から残る唯一の建物である。尚八幡宮の絵図には「窮邃軒」とされ一般にそのように称されているが、正確には「軒」は三間以上の横長の建物を指すもので「窮邃亭」と変更すべきである。森蘊氏の指摘されるところである。
(昭和五十一年三月)