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(一) はじめに

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 普賢寺は、室積峨嵋山の麓にあり、寺伝によれば、寛弘三年(一〇〇六)の創建で、播州書写山(現兵庫県姫路市)性空上人の開基と伝える。はじめは大多和羅山(大峰山)に一宇を営むも、室町時代後期の頃、薩摩国大林寺の僧玄宥が、嶮悪の地をさけて今の処に移したとされ、山号峨嵋山は、普賢菩薩出現の地といわれる峨嵋山光相寺によったものである。即ち『寺社由来』(寛保元年・一七四一)には、「普賢縁起」として次の如く収録している。
  「(前略)逐起一宇之堂干浦之大多和羅山、以安置所謂普賢菩薩之像、且供養之、号山日娥媚寺即繋以普賢之名、後薩州沙門日禅玄宥、深信此尊像而帰仰之云、堂之旧地在高山之巓、嶮径紆途非無老雅士女之艱於往来者也、困移建干今所矣、若夫武下殿之居趾、今在山下、与普賢堂相距十町余、熟惟異朝喜州峨嵋山周廻千里、重巌複澗不測遠近、山有光相寺、為普賢示現之地、山之取名因両山相対而如娥媚也、(以下略)」(註一)
 現在の本堂は、元禄十五年(一七〇二)に改築されたものという。(註二)藩政時代には、毛利氏の祈願所として、保護を受け、寺領九石五斗切米五石を給せられた。寺格は、藩直営の普請寺とされた。本堂右正面の雀朱門(赤門)は、毛利家参詣の専用門であった。
 この普賢寺の方丈南面に、約一四〇坪の枯山水が在る。敷地は正方形に近く、ほぼ平庭である。現在は周囲を生垣によって区切っているが、南側の一部に土塀の痕跡を遺している。庭園背後には、峨嵋山を有し、庭の構成は、向って左奥に豪快な枯滝三尊石組を構えて主景となし、庭園ほぼ中央部に礼拝石をもうけ、これに至る飛石と、岩島を思わせる巨石の他に二、三石による石組を適所に配して庭としたものである。

普賢寺庭入口 (昭和三十九年八月撮影)

 寺伝によれば、この庭は古くから雪舟庭と伝称されているが、昭和四十八年重森三玲氏により、雪舟よりやや時代の降った室町末期に作庭されたものが、後世一部改変されて、今日に至るとする説が発表された。(註三)

『山口県寺社名勝図録』 普賢寺境内(部分) 大阪大成館 明治三十一年 (庭園は左端)

 これらに対し私は、普賢寺方丈庭を、江戸初期築造とし、雪舟説及び一部改造説を否定するものである。而して本論はこれらに関する私見と、わずかな解説を加えて小論としたものである。
 (註一)貞享三年(一六八六)丙寅季秋初三日 復軒山田原欽撰拝書
 (註二)『山口県の歴史散歩』山口県社会科研究会 昭和四十九年
 (註三)『日本庭園史大系』重森三玲・重森完途 著 昭和四十八年