三尊石は平安時代我国最古の作庭秘伝書である橘俊綱の編纂とされる『作庭記』に既に述べられるところであるが、庭園に一般に用いられるようになったのは、室町時代以後のことである。この三尊石を立てて同時に滝にみせる手法を枯滝三尊石組と称している。
普賢寺方丈庭園は、この枯滝三尊石組を主景としたもので、この部分に若干の盛土をなし、中央に高さ二mの巨石を構え、向ってその右側に高さ一・一m、左側に九〇cmの添石をなし、その手法は豪快でやや派手な意匠構成である。石は稜角をおびその派手で強烈な印象は桃山時代の流行を踏襲したものであろう。
普賢寺庭枯滝三尊石組 この付近の石組構成は、極めて豪快で桃山期の遺構を思わせる。 (昭和三十九年八月十五日撮影)
この三尊石組の背後は現在椎の老木が成長し、庭はやや暗くいかにも古庭園らしい霊域の境地を思わせるが、当初の作庭構成ではない。おそらくこの巨木は、当初三尊石組の背後を護る程度の刈込みであったと思われる。竜安寺石庭のように、植物を排除したものはともかく、生きた植栽を使用する場合、その成長により、当初の庭園構成を崩すことしばしばである。古来この成長を押しとどめるため、刈込み等を行ったが、植物がもつ庭園環境はきびしく、常に変貌を余儀なくされる。
普賢寺庭園に於いても、三尊石組の背後をなす椎の刈込が歳月を経て成長したものであろう。背後をなす老木の内、その一本が最近枯死したが、誤りない整備更新を願いたいものである。
前述の三尊石に対し、庭園中央部に幅二mに余る巨大な礼拝石を据えて一対となし、本堂から礼拝石までの間は十個の飛石を低く配置している。このように主景部に若干の土盛が認められる他は、平庭として江戸初期方丈南庭の標準的意匠を示すものである。その他平坦部六個所にそれぞれ二、三石による平凡な石組配置がされている。高い石を使用せず空白をおぎなうための伝統的布石である。
普賢寺庭 拝石・飛石部 (この部分を後世の改作とする説もある) (昭和三十九年八月十五日撮影)
三尊石前方西側の斜に据えた石(高さ四五cm)は、東側の巨大な岩島(幅四・五m、高さ約一m)に向って母虎が子虎を連れて水中に頭を現わし、海を渡る所謂「虎の子渡し」を意図したようである。中国の後漢の書『劉〓伝』の故事によるもので『大雲山誌稿』に
「〓弘農ノ太守トナル。郡中大(ニ)布(キ)二仁政(ヲ)一。民大(ニ)和(ス)。郡中(ノ)虎皆渡(テ)レ海而避(ク)。又外ノ記ニ、〓弘農ノ太守トナッテ布(ク)レ徳(ヲ)故ニ虎皆負レ子(ヲ)夜中ニ海ヲ渡ッテ避ルト。」
と記している。普賢寺方丈正面の雀朱門(赤門)が、毛利家参詣の専用門であったことと合わせ考えての私の推測であるが、作者の意図するところであれば、藩主の徳政を讃してのことであろう。金地院方丈南庭は鶴亀の庭として著名であるが、目的は徳川家の吉祥を祈念する政策的意図によるものである。爾来このような意図が流行したことも事実である。普賢寺庭もかかる思惟によるものである。
普賢寺庭 虎の子渡しと推定される。仁政の故に虎は子をつれて夜中に海を渡ったという。
頭は東側に構えた巨大な岩島にむいている。(下部の雑草を除きたい) (昭和四十七年五月撮影)
方丈庭園は、前方に一区域を整然と画すものであるが、普賢寺庭園の場合、向って左側奥部に約七mほどの築地塀の痕跡を遺している。したがって現在の槇の生垣は、当初からのものではなく、庭園の区域は若干改変された可能性がある。本庭の敷地が奥部に於いて広がりを見せるのは、遠近法によって計画的に妙を得たものか、後世の改変によるものか判然としないが、おそらく前者の遠近法の導入と考えてよいであろう。
以上のように平面構成の意匠は洗練され、格調の高いものであるが、この敷地は、かつて十年余り前までは芝生であった。水面になぞらえたこの部分が当初京都風の白砂敷であったか、現況のように苔地(又は海の砂地)であったかは明らかでない。発掘調査によって容易に判明することであるから、庭園の周囲構造とともに、旧規への復元がのぞまれる。おそらく寺院周辺と同様の海砂敷と私は推定している。
他に方丈縁側に、船形の手水鉢を台石上に据え、鉢前としての役石を形式通りに添えている。
普賢寺庭 鉢前役石、役石は約束通りに構成されている。 (昭和三十九年八月撮影)
庭園左手前には、蘇鉄の植栽と灯籠一基が置かれている。宝珠、笠、中台は平野石(安山岩)で加工され、火袋は木製、竿は自然石で補作されているが後世のものである。
普賢寺庭 灯籠と蘇鉄 いずれも後世の進入であろう。 (昭和三十九年八月十五日撮影)
庭園内に植えられた蘇鉄や礼拝石横の槇も同様後世のもので、鑑賞上問題とすべきではない。特に後者の槇は容姿が適当でなく早く撤去すべきである。蘇鉄や灯籠が取除かれ周囲が土塀に復元された庭景を早く拝見したいものである。
(註一)古くは天台宗と伝えている『山口県の歴史散歩』山口県社会教育研究会 昭和四十九年