安国寺枯山水(福山市鞆)中国地方への枯山水庭園伝播の草創と推考される。 (昭和四十四年八月撮影)
さて普賢寺方丈南庭は、江戸初期方丈庭園の規約的意匠を示すものである。特に三尊石組は、豪快で強烈な印象を与え、その技術は秀抜である。更に東側斜線上に構えた岩島(長さ四・五m、地上一m)は、その前方横の小石の布石により、巨石を強調して効果的である。だがこれらの技法に比較すれば、その他の飛石や礼拝石横の石組はやや平凡である。重森三玲氏は、この事実を指摘して、奥部の三尊石組を中心とした滝頭部を室町末期、既に桃山期の先駆をなすものとし、飛石や礼拝石を含む手前の石組を、明治時代の改作と断定されている。(註一)
三尊石組や斜線上に構えた石組が室町・桃山期の臭味を有することを否定するものではないが、この一部改変説には、積極的理由を欠く憾みがある。蓋し主景の枯滝部を強調するため、他の部分を相対的に平凡に構成したとも考えられるからである。一部改作説の主張はやや主観的であり、改作と断定するだけの考証的根拠は薄弱と見るが誤りであろうか。礼拝石横の石組や飛石とても他の石組と比較して、石質や芸術的技量を異にするとも断定しがたいのではないか。
枯滝三尊石組とともに東側斜に構えた岩島は力強く中世の臭味を遺している。
虎は仔を負いてこの岩島に向っている。 (昭和三十九年八月撮影)
普賢寺庭 左奧が手水鉢、手前の大石が礼拝石 (昭和六十一年五月撮影)
前述の如く、普賢寺方丈庭を私は江戸初期の作庭と見るものであるが、次にこのことについて論及してみたい。普賢寺庭園に共通する地割構成を有し、且つ比較的築造年代の明確なものとして、大徳寺本坊方丈南庭を中心に考察したい。この庭は南禅寺方丈庭にみられるように、南東奥部に主景を構え、右手前を余白としている。主景部に二つの巨石(高さ二m)を相接して立て、その下部に平石を伏せて枯滝となし、背後の築地塀寄りに数個の石を断続して据えている。主景をなす枯滝背後には、椿等の常緑樹を刈込んでいる。この様式は、本坊方丈庭としての機能を念頭においた江戸初期に於ける代表的な方丈庭の役割を有するものである。
現在の大徳寺本坊方丈は、寛永十三年(一六三六)に再建されており、これに伴う作造と見ることは、学説の一致する処である。この大徳寺本坊方丈南庭及び普賢寺本堂南庭は、長方形と正方形の敷地の差異はあるが、ともに明確な一区画を有し、周囲を生垣又は土塀で囲む等、平庭に於ける枯山水型式として、禅院方丈南庭の規約的作庭手法によるものである。加えて主景(滝頭部)を向って左奥に寄せて構え、逆の方向を余白として水面になぞらえその一部に孤島を思わせる少数の石組を配置する等の共通点が指摘される。又大徳寺本坊方丈東庭が敷地幅を若干変更(北隅から南へ向って)しているが、普賢寺庭も正確には正方形と言いがたく、奥部がわずかに広い等、遠近法の効果を試みている。(註二)
以上の如く、両庭園は同型式の共通する地割構成を有しており、普賢寺枯山水は京都に於ける大徳寺本坊方丈庭の築造よりわずかに遅れる頃のものであろう。元禄十五年(一七〇二)の寺院改築が事実とすれば、これに伴う造庭と見てもよいであろう。
他に注目すべきことがある。『慶長周防国絵図』(宇部市立図書館蔵)は、国指定の重文であるが、これは幕府が官庫に収納のため藩体制下に於いて、国ごとに作成せしめた国土の基本図である。周防国に於いては、慶長期に上呈した控図が残されていて、これによると、室積海岸一体は白色とし、現在の普賢寺付近まで砂地に描かれている。この絵図の海岸線の地形描写は、精細であって、室積海岸の近世初頭における地形状況を知り得る唯一の歴史資料だけに気にかかる一件である。
『慶長周防国絵図』(部分) (宇部市立図書館附設郷土資料館所蔵) 中央下部が室積村 西側の海岸は白砂地である。
仮に陸けい化は古墳時代に近いとしても光・下松付近で海抜三m以下の低地の完全陸化は中・近世以降とされている。普賢寺の屋敷は、中世後期は少くとも汀線上に位置する可能性が強く、小規模の祠堂程度ならともかく、本堂南庭を有する程の格式ある寺を、かかる砂嘴(さし)地に建立していたとすることは、はなはだ疑問である。
室積港は良港として室町後期既に新しい庭園文化を受容するだけの要素は定着していたと推定される。しかし右に述べた如く海抜が低く、慶長期の国絵図に付近を砂地に描かれ『地下上申村絵図』元文三年(一七三八)には普賢寺の周辺を特に「池ノ原」(小名)と称して低地であったことを示している。又、現在も境内に舟溜の遺構が在ることをあわせ考えると、更に古い室町後期にこの地に大寺があったとすることにはやや躊躇するものがある。普賢寺にのこる証文・寺領打渡し状(慶長十二年・一六〇七には屋敷壱反・代壱貫文)等とあわせてこの点からも再検討したいものである。
普賢寺境内 舟溜には多数のイナがのぼっていた。
『地下上申』室積村地下図(部分・山口県文書館蔵) 元文三年(一七三八) 普賢寺周辺は「池ノ原」と記されている。
いずれにしても、この種の平庭における枯山水様式、規約的方丈庭の地方伝播は江戸初期を遡るものではない。普賢寺庭が、池泉的要素が濃く、北宋山水画的豪快さがあることは西桂氏の指摘されるところである。私もその考えには賛成であるが、江戸期の庭に室町・桃山期の伝統が受け継がれても不思議ではないであろう。
(註一)『日本庭園史大系』重森三玲・重森完途 著 昭和四十八年
(註二)市内に於ける花岡八幡宮庭園の内、拝殿に向って右側の庭は、奥部の敷地を狭め、比較的小柄な石(三神石)を立て敷地を後退させる等、遠近法導入のよい例である。これは奥部に三神石を構えて神々の崇高なることを強調するため、主たる観賞位置(俗界)から三神石までの隔つ距離を強調するためであった。手前の鶴、亀は氏子への吉祥を願ってのことである。