ビューア該当ページ

(四) 作者について

85 ~ 86 / 541ページ
 本論に於いて、普賢寺庭園は、大徳寺本坊方丈南庭と共通する地割構成を有することを指摘し、これによって、築造年代を推定したが、更に作者の系譜をさぐる資料にはならないであろうか。
 まず大徳寺本坊方丈南庭の作者について『都林泉名勝図会』は、大徳寺百七十世天祐紹杲とし、『龍宝山大徳寺世譜』は小堀遠州の作としている。更に寺伝では、南庭を天祐和尚、東庭を小堀遠州と区別している。又これらに関する学説では、吉永義信博士が天祐紹杲作庭説を認めてもよいと思われる(註一)とされるのに対し、森蘊博士は、庭園意匠の点では小堀遠州の可能性を残すものと見る(註二)とされる。更に吉川需氏は、方丈庭園にみられる手法から、その作者としての小堀遠州の名が伝わるのは妥当である(註三)とされている。これ程有名な庭園であり乍ら学説の一致を認めがたい。このように庭園は、書画と違い署名、印を欠く等作者を推定しがたい場合が多く、両庭園が型式上類似したとしても、これは江戸初期に於ける方丈庭の一つの特徴でありこの点から作者の係累をさぐることは困難である。今後普賢寺庭園に於ける根本資料の発見をまつ以外はないであろう。

『都林泉名勝図絵』籬島軒秋里(寛政十一年・一七九九) 大徳寺・方丈庭


大徳寺本坊方丈庭略図 『日本の庭園』森蘊編を基に作成


普賢寺庭略図(昭和三十九年八月調)

 (註一)『日本の庭園』吉永義信著 昭和四十年
 (註二)『小堀遠州の作事』奈良国立文化財研究所学報 森蘊著 昭和四十一年
 (註三)『太陽庭と家シリーズⅡ 枯山水』解説 吉川需 昭和五十五年