正覚寺庭園(久米)雪舟築造と伝えるが江戸期のものである。上部立石が枯滝である。 (昭和四十年一月撮影)
浄眞寺(富田)池泉(涸) 伝雪舟造 (昭和四十五年九月撮影)
医光寺(益田市)池泉 右側が滝 伝雪舟造 (昭和四十五年八月撮影)
香山園(山口市) 池泉中央部中嶋 伝雪舟造 (昭和四十三年八月撮影)
萬福寺庭 (益田市) 伝雪舟造 (昭和四十五年八月撮影)
これらの内、常栄寺庭園は、信憑性が高く最も技法が優れている。山口市宮野の常栄寺の地には、もと妙喜寺があった。大内教弘夫人の菩提寺である。妙喜寺の山水は、政弘が雪舟に命じて築かせたと伝えられており、傍証的資料としては、次の三点が挙げられる。まず雪舟の弟子、高城秋月の詩友である薩摩の古處山人の詩は、次の如く述べている。即ち
君不見大内昔全盛 此地開荘擬金閣
庭次営造假山水 購求使僧雪舟作
意匠迥出人意表 酷似三山与二五岳一
(以下略) (註一)
次に雲谷等顔の詩偈には
雪舟老人之旧居雲谷軒。拝以為二眠食之地一。老人遺愛勝境今猶存。老松怪石奇花異草緑水青山不レ改二旧容一。(以下略) (註二)
と記している。又雪舟の庇護者、大内教弘の菩提所、闢雲寺の古文書『闢雲志』の下巻、慶長十二丁未年(一六〇七)の条に、当山再任百三十二代桐菴昌鳳禅師の記録がある。
妙喜寺山(ヲ)号(ス)二楞伽山(ト)一庭上(ニ)設(ク)二山水(ヲ)一
雪舟和尚移(スト)二云西湖之景ヲ(ヲ)一
この『闢雲志』下巻には、元禄十四竜集(一七〇一)暮秋の奥書がある。(註三)
このようにして、常栄寺庭園は、古くから雪舟築造と伝称されているが、彼が作庭に関与したとする確実な史料は見当らない。
常栄寺庭園(山口市)滝部 伝雪舟造 (昭和三十三年八月撮影)
次に善生寺(山口市)庭園について、この地には、大内氏の重臣が建てた念仏堂西方寺が在ったが、その後毛利輝元の側室の寺となり、寺号を周慶寺としたが、更に明治になり、今の善生寺が移った。この寺の裏庭は、雪舟庭と伝えられているが、荒廃し破損著しく、特に前方池泉部の旧規が明らかでない。築造年代を判定するにはこの部分の発掘が必要と考えている。
善生寺庭園(山口市) 伝雪舟造 (昭和四十三年八月撮影)
県内に於いても、その他私の未踏査の伝雪舟庭があろうが、ここに挙げたその他の庭は、いずれも江戸時代か又はそれ以降のものである。ではなぜこのように多くの雪舟庭が存在するのであろうか。
室町中期の頃から、かつての石立僧にかわり、山水河原者が台頭する。庭者、植師、庭仕、庭作とも称せられる職人の一群である。当時の山水河原者の中には、善阿弥の如く、足利義政の同朋となり、信頼されいつくしまれた者もあったが、これはむしろ例外とすべきものである。仮に山水河原者である下層視された技術者によって、方丈南庭が作庭されたとしても、彼等は単なる力僕、夫役(ふやく)とされ、格式ある方丈南庭の作者とすることは、不可能な時代であった。山水河原者の名称は記録の上では、寛永年間を最後とする。しかしこの社会的、封建的傾向は、それ以後も踏襲され、彼等の顕著な活躍にもかかわらず、庭者の名をもって後世寺伝とすることは、極めて稀であった。
有名な京都の竜安寺石庭には、築地塀に最も近い石の背面に、当時の山水河原者と思われる二人の名(小太郎、 二郎)が陰刻されている。作者と断定する資料には欠けるが、それは作庭者として、後世の憶説とは比較にならぬ第一級の資料である。この庭を正確に模写した籬島軒秋里や歴代住職がこの彫刻を知らないはずはないが江戸時代には、この二人についての記録は、いささかも見当らない。竜安寺に対する気兼から、敢えてこれにふれなかったのではなかろうか。このような風潮が、後世小堀遠州や雪舟を作者とする多くの庭園を生ずる要因となったのではなかろうか。
竜安寺枯山水
普賢寺庭園の如き、平庭に於ける枯山水様式の庭は、京都の禅院を中心として生まれ発展したもので、高度な庭園文化の故に、地方へ伝播することは極めて稀であった。したがって、遠く室積の地にあって、普賢寺がこのような高度な造園技術を持つ人材を持ち合わせたわけはなく、それは特定技術者の中央からの直接の導入によるものであろう。その技術者とは、法衣をまとった僧侶や画家のみならず、所謂庭者と称する如き職人階級をも含めて検討すべきであろう。もっと率直に言えば、枯滝石組付近の技法は、僧侶による庭園趣味程度の技量や教養のなせるものではない。庭者による充分な経験と巧妙な専門技術を必要とする。蓋し語られざる庭者を評価し、想像が許されるならば、寺伝とすることのなかった彼等に普賢寺方丈庭園の作者としての名誉を与えてやりたいと思うのである。
このような室積の遠地に洗練された優秀な枯山水が隠れたる彼等によって築造されたことが、後世雪舟に擬せられる結果となったのではなかろうか。
(註一)崇山観雪舟仮山水歌応山主之需
古處山樵震
(註二)時文禄ニ載初冬五日
現住雲谷等顔詩焉
(註三)山口県文書館田村哲夫氏の協力により大山平四郎氏が『竜安寺石庭』昭和四十五年に於いて発表されたものである。