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(六) おわりに

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 余談にわたるが、昭和五十年九月吉永義信氏(文化庁文化財審議会専門委員)に普賢寺庭園に関する簡単な調査に図面、写真を添えて報告を行った。県の文化財指定を願ってのことである。折返し返事をいただき、庭園解釈にほぼ誤りのないこと、県の文化財としての価値があるように思われること、次には地元の申請により吉川需氏(文化庁文化財保護部主任文化財調査官)がおそらく実地調査に当られるであろうことなどの伝達があった。よい返事をいただいたので、指定申請をなすべく各関係者に重ねてこのことを要請したが話は前進しなかった。その後関係者からただ一度の返事もいただけぬまま十年の歳月が去った。吉永義信先生は昭和六十年四月逝去され、吉川需先生は退官後大学研究室へと赴かれた。
 普賢寺庭は前述の如く、平庭に於ける枯山水様式の庭として、禅院方丈庭に於ける規約的性格を有し、地方には稀な存在である。特に枯滝石組の手法は、豪快にして秀抜である。幸いにして後世の改変を免がれ、県内に於ける得難い庭園遺産である。文化財指定による確実な保存を願うべく、関係者の御協力を願うものである。
(昭和六十一年十二月)

 尚普賢寺庭に関する簡単な所見として、吉永・上原両博士からの書簡を一葉ずつ掲載しておきたい。御指導いただいたうちの一部である。

(文化庁文化財審議委員会 名勝部会長) 昭和五十年九月十六日付


(東京農業大学名誉教授) 昭和三十九年九月九日付

  普賢寺庭追記
 山口県古庭園調査委員の西桂氏は「未指定文化財調査報告8」(平成六年三月)に於いて次の如き報告をしておられるので築造年代に関する部分を抜粋しておきたい。
  (前略)「豪華な石組でかつ秀抜している。寺伝では、雪舟の築庭とされている。その他に、江戸時代初期と考える説があるものの、そのいずれとも推定の域をでるものではない。本寺が現在地に移ったのは不明ながら、室町時代後期とするなら雪舟の活躍時と重なるが、本庭のような枯山水庭園の出現は、一般的には雪舟以後と考えられている。本格的な枯山水庭園の早い時期の作庭とされているのが、備後安国寺(広島県鞆)や本庭である。鞆も室積もともに古くから栄えた良港で、早く新しい文化が導入されたことは充分考えられる。江戸時代前期の作庭とする理由に、大徳寺本坊庭園(京都市)などと類似する地割や石組を上げている説にも傾聴すべき点はあるが水墨画的な庭園構成であること、力強さや遠近感のある手法は早い時期の地方における枯山水の作例ではなかろうか。(以下略)」
 尚山口県教育委員会告示第四号をもって平成六年五月二日普賢寺庭は山口県指定名勝に指定された。県報は次の通りである。
  山口県教育委員会告示第四号
 山口県文化財保護条例(昭和四十年山口県条例第一〇号)第三十七条第一項の規定により、次の記念物を山口県指定名勝に指定する。
  平成六年五月二日
山口県教育委員会



名称所在地指定地域所有者
普賢寺庭園光市大字室積村三八八八光市大字室積村三八八八のうち二、一七七・二二九m2宗教法人普賢寺

(以上光市文化センター提供)