(前略)「私家ニ伝リ候證拠物須々万沼城ニ勝屋馬之丞籠城より悪人参家へ火指不残焼払申候」(以下略)
としてかかる口伝のあることを述べている。

内藤家文書(その一) (正徳五年・一七一五) 現在は山口県文書館蔵

同上(その二)
その後毛利の中国地方統一に際し、帰農して当村瀬戸村に移住している。瀬戸村に土着の年代については、同じく正徳五年(一七一五)の『名字願』に
(前略)「内蔵丞五拾七才ニて相果、其子又三良八才弟与市郎五才罷成候節長門国御入城被遊ニ付御暇被遣瀬戸村ニて直様御百姓相勤申候」(以下略)
と記している。「長門国御入城被遊ニ付」とは、未完のまま毛利輝元が、萩城へ移った慶長九年(一六〇四)十一月(『御用所日記』)を思わせるが、又三良は寛永八年(一六三一)六月六日五十七才で死去したことが、内藤家過去帳に明らかであるから、これから逆算すれば、天正十年(一五八二)の移住である。又時代は降るが、同家安政四年(一八五七)五月の『願書』にも
(前略)「乍恐私家柄天正拾年瀬戸村ヘ参リ、私迠十一代御百姓相続仕候処、家柄格別之由緒ニ付」(以下略)
としてこれと一致する。
さて、天正十年(一五八二)瀬戸村に移住の翌十一年二月には内蔵之丞が世を去っているから、史料に誤りがなければ、其の子又三良はわずか九才であるが、その後長じては、瀬戸村の名家内山氏(註二)と縁組し、村では庄屋を務める等家は安定していたものと推考される。即ち前掲の『名字願』には「御暇被遣瀬戸村ニて直様御百姓相勤申候」に続いて
「又三良盛人仕御庄屋役相勤、其子又右衛門其子六郎左衛門私迄惣橘より六代之内四代御役相勤申候」(以下略)
とし代々庄屋役にあったことを記している。更に降って世にいう「万役山事件」に端を発する徳山藩再興願の折には、同家『御内々演説覚』未ノ十月に
(前略)「享保四年御家様御再興之節ニ御領内百姓惣代トして江戸表御屋敷え恐悦ニ罷出申上候」(以下略)
として藩再興に尽力のあったことを記している。永くこの一件を家の誇りとしたのであろう。
さて帰農後の内藤家は、現在の米川瀬戸を深く入り込んだ僻地(現在の下松市大字瀬戸一〇八八番地・「下松市市域図」参照)に居住している。山村の多くがそうであるように、狭隘な山裾の一部を利用して、屋敷としたものである。口伝では、この屋敷が瀬戸村に移住後昭和初期に至るまで、一貫して居住した地であるという。
四〇四坪の屋敷は、前方を石垣とし、この上に土塀があったが、現在は存在しない。山寄りにはモミの巨樹がそびえ、あたかも寺跡のような景観を呈している。石段を登ると、埋ってはいるが門跡を示す六基の簡素な礎石があり、林泉はこれを経て左側山裾まで約百坪の間に構成されている。茅葺の母屋は、昭和初期解体し戦中は耕して畑地としていた。門は昭和三十七年子供の火遊びのため焼失して(註三)建物(写真参照)は存在しないが、庭園は樹草の中に健在である。

内藤家遠景(明治末)この頃内藤家の建物はすべて健在であるが、既に土塀は存在しない。
左奥の建物は光明寺である。 宗清尚氏(京大在学中)撮影

モミの巨樹 目通り周囲三七〇cm
「雪舟の弟子による作庭」と伝えられる本庭は、中央に奥行のある池泉(現在は涸)を大きく穿ち、奥部に枯滝を構え、向って右側奥に鶴・亀両島を配置した所謂蓬莱池泉観賞庭である。(略図参照)北に位置する座敷からの座視を旨とするものであるが、母屋から池辺拝石までは当初埋ってはいたが、定石通りに飛石が打たれ又泉池中央及び東部池岸に、舟石を配し、池の周囲にわずかな盛土と石組をする等、随所にすぐれた造庭技術を認めることができる。

内藤庭略図 昭和49.9.22 本図は精確なものではなく、後日実測図の作成を行いたい。

枯滝付近石組 雑草で覆われているが石組は健在である。
整備して埋れ石を出しモミに寄生する一ツ葉も取り除く必要がある。 (昭和四十九年九月撮影)

母屋前方部景観 中央は礼拝石、左上部は鶴島。

主屋より池辺拝石に至る飛石組付近。 このあたりはほぼ泥土で覆われていた。
現在庭には、雑草が茂り、一部に倒石・埋石又中嶋や護岸一部に損傷の憾みもあるが、地方に於ける庄屋庭としては、県内最古に属し地方に於ける造園史の上で、重要な要素を有するものである。以下庭園細部について仔細に考察することとしたい。

内藤家旧屋敷景観
(註一)内藤家には、右の『名字願』正徳五年(一七一五)をはじめ、約八百点の庄屋文書(含、明治以降)が山口県文書館に所蔵される。その内、主たるものを列挙しておきたい。
一、諸御役(幕府役職)
一、萩大身衆分現帳 享保二年(一七一七)
一、都濃郡瀬戸村打渡坪付 元和三年(一六一七)
一、都濃郡徳山領瀬戸村境目書 寛延二年(一七四九)
一、文化五年在町御制法(一八〇八)
一、正徳五年正月ヨリ庄屋中御條目(一七一五)
一、巡見上使御案内 享保二年(一七一七)
一、家柄に付御内々演説覚
一、瀬戸村庄屋役申付状
一、畔頭退役願 元禄十四年(一七〇一)
一、名字願 正徳五年(一七一五)
一、名字差免願書控 正徳五年(一七一五)
一、名字差免状 正徳五年(一七一五)
一、畠永代売捌証文 寛文六年(一六六六)
一、銀借用証文 享保十二年(一七二七)
一、田畑拾カ年切売渡証文 享保十三年(一七二八)
一、先年より後山出入之事 元禄
一、河内神社修補願書 享保十七年(一七三二)

(註二)内藤家系譜
右の系図は、本論に必要な部分を、当家過去帳より抜粋作成したものである。瀬戸村に移住後の当家については、昭和五十五年広島大学教育学部内藤美代子の卒論に詳述される。瀬戸村内山氏については、『下松地方史研究』第二十五輯山本ミツエ論文(『大鎮守縁起』参照)、大藤谷村藤井氏については、同輯橘正論文を参照されたい。寛延元年(一七四八)『地下上申』を上申した藤井長右衛門家である。瀬戸村へ移住の翌年当主の内蔵之丞はわずか九才の子を遺して世を去っている。現在で云えば母子家庭であるが、長じては同村の領主内山氏と縁組を重ね、その後庄屋職にあったことを考えると瀬戸村への移住は、もともと内山氏を頼ったのではないか。このことについて内藤善夫氏は聴いていないとの返事であった。

『大鎮守縁起』(天文十年・一五四一) 瀬戸村(現在は津和野町に移住) 内山家所蔵
(註三)内藤善夫氏より聴取