簡単に当時の時代背景をさぐっておきたい。
周知のごとく、この時代藩に於ける財政窮迫は、単に徳山藩のみではないが、幕府はこのことを憂慮し、諸藩に命じて厳重な倹約令を発している。朝夕の食膳を一菜とし、二間梁以上の新築を禁止する等節約は衣類・家屋・日用品にまで及んでいる。かかる倹政下にあって、百姓の範とすべき庄屋が、石垣や門構に加えて池泉の築造に及ぶことは、やや身分不相応な作事と評されはしないか。倹約令には庭園の築造を禁止してはいないが、それは庭を造る者がいなかったからである。
内藤庭よりかなり時代は降るが、江戸末期の頃『木村翁作りし庭の景色図』(和綴年代不詳 山田孝太郎氏所蔵)と称する肉筆図がある。これは木村翁が、一代の間に作庭した数ケ村に及ぶ二十三庭を正確に描いて、「景色図」としたものである。須々万城五郎左衛門家、三丘坂本三衛門家等周知の大庄屋をはじめ、寺院・庄屋等の庭が描かれており、現在の下松市域内でも五庭が描かれている。これによって、当時この地方に於ける庭園の傾向をかなり正確に知ることが出来る貴重な絵図である。
ここに描かれた庭園の面積は、四・五坪からせいぜいその数倍程度で、下松市内庭園の内最大規模の庭は、原田庄左衛門庭である。彼は大庄屋格として末武村に居住し、地蔵院別当義詮宥信(寛政三年二月寂)の実家として花岡八幡宮にも重きをなしていた。今の野見山医院附近に広大な屋敷を構えていたと伝えられるが、おそらく庭は内藤家に及ばないであろう。
元和三年(一六一七)の記録では、末武村四八九五石余に対して、内藤家の瀬戸村は、五二〇石余とその石高は一〇分の一余りの寒村である。あえて憶測すれば、内藤家往年の経緯や『御内々演説』未ノ十月覚に於ける「格別之由緒ニ付」を勘案しても、この時代一寒村の庄屋にしては、作庭年代が早く、やや過大に過ぎる気もする。
さて注目したいことがある。現在はかなり泥土が埋もれているが、池中に径約一・五m、深さ一mの魚溜りが二ケ所健在である。勿論これは、山村にあって飼育池としての実用を有するものであるが、ただそれのみであろうか。
灌漑用のため池の築造にも藩の許可を必要とした時代である。断定は難しいが、このような世情において、施主の脳裡には、池は防火用の水溜やとりわけ旱魃時の田畑への灌漑のためとし、二つの魚溜は、川魚の飼育のための池であることを主張するためのように思えてならない。
厳格な倹約令等諸般の事情から推しての私の単なる推測にすぎない。