内藤家では、古くから「雪舟の弟子」による作庭であって、池泉を「心字池」と称していたという。(註一)この二つの伝承は、いずれもありふれたものであって、単なる口伝のようであるが、史料にかえてしばらくこのことを考証することとしたい。
まず心字池は、池の形を「心」という字に象るもので、内藤庭のように、池中に二島を構える場合が多いが、その数は一定ではない。心字池の起源についても明確でなく、一般には、「心」は禅語であり、庭に宗教的意義を与え、又、池心・波心・湖心等の文学上の熟語が、庭園の美化に利用されたとも考えられている。夢窓疎石の西芳寺庭や天竜寺池泉、更に県内では、山口の常栄寺池泉を心字池と称しているがこれはおそらく、後世の人々の池の形からの称呼であろう。最近では屈曲が多く、非整形の池をすべて「心字池」と称する傾向もある。かかる鑑賞態度は好ましくないが、心字池との伝承が、古くから当家にあるとすれば、内藤庭は二島を有する江戸時代の池でもあり、庭園観賞の一つの要素とも考えられよう。
他に一つ「雪舟の弟子による作庭」との伝承がある。内藤家庭園を中世庭園とは認めがたいが、近くにあってかつ雪舟築造の可能性が我国で最も高いとされる山口の常栄寺庭園(略図参照)池泉との対比を試みるとかなりな類似点を挙げることができる。
常栄寺庭園略図 『竜安寺石庭』講談社 大山平四郎を基に作成
まず内藤庭は、伝統的地割とは逆に奥深く造られていて、山に添って横長に地割りする充分な地形条件にありながら、池を奥深く円形に構えて、趣の深い境地を演出している。これは常栄寺池泉の地割と符合するところである。
次に両庭は、池泉内部に鶴・亀二島を構え、ともに岩島・舟石を配置して、「蓬莱庭」として共通の性格を有し、又古くからともに「心字池」と称されている。
ただ室町時代に鶴・亀石組が存在したか否かは、容易に断定しがたく、加えて常栄寺池泉中島を鶴・亀と見ることにも疑義があろうが、内藤家作庭の頃は、既にそのように称されていた可能性が高いであろう。(常栄寺庭中嶋を以下仮に鶴・亀島と称しておきたい。)
内藤家は、池泉岸近く、要所に置石、岩島を修景したこと、中央近くに舟石を据えたこと、特に舟石は、常栄寺舟石に景観上似ており、又鶴島石組の局部手法にも、金地院庭や常栄寺庭に共通点を認めることができる。
次に西本願寺虎渓の庭(桃山時代)や南禅寺金地院庭(江戸初期)、深田氏庭(鳥取県米子市・江戸初期)は、鶴・亀両島が座視観賞地点からほぼ等距離に組まれているのに対し、内藤庭は視点(建造物)から斜線上すれちがいに鶴・亀両島を構えて、常栄寺庭(廻遊式ではあるが)と共通の配置を示している。(註二)
更に思考すれば、内藤庭は鶴・亀両島を奥岸一mの位置に寄せ、前方に水面を広くしている。これは後部池辺に石組を欠くことと合わせて、小池泉にあって蓬莱島が、はるか遠方に在ることを力説するに効果的である。枯山水に於ける白砂の空白部に於いても同様であるが、池泉においては、枯山水以上に静寂の感を強くする。
常栄寺庭は、洗練度高く九〇〇坪に近い廻遊式であり、内藤庭と比較するのは唐突であるが、次の如き類似点を列挙することができる。
(一) 池泉は、一般的伝統に反して、ともに奥深く特殊な地割形態を示している。
(二) ともに蓬莱庭であって、池泉内部に鶴・亀両島・岩島・舟石を配置している。
(三) 特に舟石・鶴石組局部、出島等に類似手法が認められる。
(四) 護岸の一部は石組を欠き、一部は石垣積にするなど、池辺修景に変化をもたせている。
(五) 池泉はともに二島を有して古くから「心字池」と称され、かつ建物からは、二島が斜線上に構成されている。
以上内藤庭は、約一〇分の一の小規模庭でありながら、池泉随所に共通の作意・技法を認めることができる。はたして偶然であろうか。前述の如く、剛健な竜門瀑石組や枯山水石組は遠く及ばなかったが、これは、築造年代に加えて施主の嗜好も影響したであろう。作者は常栄寺庭を、熟知していたのではないだろうか。即ちかかる施工結果が、後世雪舟の弟子に擬せられたのではなく、当初から雪舟庭を熟知し、口伝のように「雪舟の弟子」を自称する作者が築造したものと推定してよいであろう。
一つの例を挙げよう。広島県尾道市の浄土寺と称する寺院に文化年間の築庭がある。この庭には、設計図が存在しており、
阿州徳島隠士
雪舟十三代之孫
長谷川千柳築之
と記されているが、このように雪舟何世を名乗る人々は、桃山期から江戸時代にかけて、多くの画家の自称するところであって、一種の画系として利用されたようである。(註三)ただ浄土寺庭は右の如く、雪舟十三代之孫を自称する明確な史料を有するものの、単なる自称であって、遺憾ながら類似点は見当たらない。
常栄寺庭に雪舟が関与した確証はないが、江戸期に入り「雪舟庭」と呼称されたことは、確実である。かかる名庭を範とし、弟子を自称する庭者があっても、不思議ではあるまい。雪舟はさておき、庭園伝播を考える上で貴重な資料と言えよう。
常栄寺池泉鶴島石組 (昭和四十三年八月撮影)
常栄寺池泉亀島石組 (昭和四十三年八月撮影)
常栄寺方丈前方枯山水石組 (昭和四十三年八月撮影)
雪舟画像・部分(常栄寺蔵)
(註一)内藤善夫氏より聴取
(註二)既に昭和四十五年十一月大山平四郎氏は『竜安寺石庭』講談社に於いて、常栄寺の「庭石は建物に対して正面でなく斜め横を見せる側面的配石構成である」ことを指摘され、翌四十六年重森完途氏は『日本庭園史大系』第七巻室町の庭(三)に於いて「常栄寺庭園に於いては、島は建築に対して平行線を示しておらず、池泉の島や岩島はいずれも北部の滝石組に対して斜線を示しているだけである。」と延べている。
(註三)『日本庭園史大系』江戸中末期の庭(一) 重森三玲著 社会思想社 昭和四十八年三月