内藤氏庭の池泉は、円形にちかく、奥行が深くこのため幽邃な印象を与えている。これに関して、長年に亘り五百余庭の実測と、二千五百余庭の実地調査を行ったとされる重森三玲氏は、その著『日本庭園史大系』江戸初期の庭(二)に於いて、「細長い池庭が、天和貞享元禄に入ると、次第に円形に近くなってくる。円形といっても、四周に出入の曲線を見せているから、必ずしも円形という訳ではないが、ともかく池の幅が広くなり、奥行が深くなってきて、やや寛永期の池庭に対する復古的な地割が見られる。それに平和が続き、経済的にも豊かになった証拠である」とし、円形になってくる元禄を中心とした池四十一庭を挙げている。これらの庭は、私の未踏査のものが多く、又判然としない庭もかなり含まれるが、貴重な見解として掲げておきたい。
内藤家系譜に於いて既に述べた如く、瀬戸村に土着後は帰農して一寒村の庄屋ではあるが元禄・正徳の頃当家が、遠慮ながらも作庭可能な隆盛期にあったことは、史料から考証して確実である。
前述の如く、奥深く円形で広い池泉を穿ち、護岸一部に石組を欠く等、池辺修景に変化をもたせたこと。池中に鶴・亀二島を構えたこと、かつこれをすれちがいに奥部に寄せたこと。又鶴島鶴首石は、江戸初期の金地院に類似し更に派手な羽石を使用していること。小規模ではあるが、門跡横の盛土部手法等あわせて、江戸中末期以前の手法を思わせるものがある。又江戸末期に至っては『築山庭造伝』等の秘伝書が世に流布しているが、本庭はこれら秘伝書の直接の影響が認められない。
明確な証拠に欠けるが、右の理由から雪舟の弟子を自称する技術者により、江戸初期末葉の頃施主の意向と、常栄寺池泉景観を巧みに意識しての築造と推定するものである。