内藤庭調査に関するいままでの経過は次の通りである。
(一) 昭和四十九年九月
「うちの古屋敷にも雪舟の弟子が造ったという古い池があるが…」内藤善夫氏からこの話をききさっそく米川の内藤庭を拝見する。竹が屋敷跡を経て更に庭の一部にも侵入し、飛石や拝石は土に埋もれ、倒れた石の中にも埋ったものが数石確認される。自生と思われる雑木も成長している。だが、モミの巨木・二石による簡素な枯滝石組・池泉の舟石・岩島・中島又池辺には出島礼拝石等を有し、当時の百姓庭としては、かなり広く池は奥深く充分な学術的価値が認められる。県内の庄屋庭としては最古級に相違ない。無住の故に改変をまぬがれたのであろうが、この時代一山村の庄屋がいったいどこからかかる技術者を招いたのであろうか。倹約令下にあって百坪もの作庭が可能であったか。直ちに発表・整備保存を内藤氏に相談したが、「今は庭どころではない、そのようなことをして貰っても……」と言われるあっけない返事であった。理解されないことが残念であった。だがその際侵入した数本の竹は至急伐採するよう、石の位置、池周辺の盛土等一切変更なきようこの方は約束を取付けた。四十九年九月二十二日のことである。飛石を埋めた土を取り払いながら、簡単な平面図を作成。しばらくして下松地方史研究会での発表を再度お願いするも余りよい返事は戴けなかった。
その後気になって何度か庭園を拝見したが無住であることが幸してか石組・地割等にも変更がない。又願い通り竹や雑木の類も取のぞかれていた。雑草は今まで通り茂って石組がほとんど見えないが、古庭園の遺構保存としては余り問題とはならない。まずは安心である。
(二) 平成三年六月
下松市教育委員会の原田氏から連絡があり県内の古庭園を県教育委員会が三年計画で踏査する由、山口県に於いては、未だ踏査が実施されていないため、古庭園の分布状況すら不明である。昭和五十五年から県が着手している未指定文化財調査の一環として、今回古庭園調査を実施する由。必要に応じて保存措置を講じるための第一歩である。調査委員は吉川需氏(文化財保護審議会・名勝部会長・文化庁技官)と西桂氏(兵庫県立農業高校教諭・現在兵庫大学講師)である。西氏は今まで鎌倉時代とされた古茂池庵庭園(兵庫県朝来郡山東町)の旧説を覆されたことで学会では有名だが面識がない。一方吉川氏は今まで何度も古庭園のことでご指導をいただいた経緯がある。
下松市からも写真に推薦理由を付けて数庭を提出するよう依頼されたので、花岡八幡宮境内の三庭・降松神社臥牛の庭・米川内富家池泉庭(涸)を提出した。数日後原田氏から他に一、二庭を追加推薦するよう県から申し入れがあった旨連絡を受けた。二十年近くを経ていることもあって、思いきって内藤氏に相談したところ快諾をいただいたので早速内藤庭を加え四庭とし、写真は教育委員会にお願いし推薦文は私が作成して、市から県文化課へ提出。
(三) 平成三年八月十四日
山口県庭園調査委員の西桂氏と県から山口博物館副館長の梅田正氏他が現地調査に来松、下松市教育委員会より文化財関係者数名と私が同行。西氏から庭園の説明と庭の高い評価をいただき、同家についての系譜、庄屋時代の文書・背景等については私から簡単に報告した。

山口県古庭園調査委員による現地調査 (平成三年八月十四日)
梅田・西両氏は午前中室積普賢寺の調査を行い予想以上の石庭のため長時間を要した由、私は普賢寺庭の県文化財申請を十数年来の念願としながらも苦慮していること等、今までの普賢寺庭に関する経緯を話し、同庭について記した『下松地方史研究』第二十三輯を贈り見解を托した。
(四) 平成四年二月
『下松地方史研究』第二十八輯に内藤氏庭園を掲載。同時に研究発表に於いて県内庄屋級の池泉としては、最古級の貴重な遺構であること又、保存対策の必要を強調する。
(五) 平成六年四月
山口県教育委員会より山口県未指定文化財調査報告書『山口県の庭園』が出版される。執筆は西桂氏の他西岡義貴氏(山口県教育委員会文化課文化財専門員)百田昌夫氏(同文化課課長補佐)が担当。市内では、花岡八幡宮・内藤家二庭が掲載されている。内藤庭に関する主要な部分は次の通りである。一部を引用しよう。
「(前略)母屋が北側にあり、この座敷からの景観を主景とした作庭であるが、門から玄関に至る経路よりの景観も中心である。
池泉は、比較的大きく穿ち、奥に枯滝を組み、中島に鶴・亀島を配している。全体的に地割はゆったりとして、奥行きのある池泉と言える。
枯滝は、モミの巨木のふもとに九〇cm高の山形の花崗岩石を前に傾斜させ、これを中心に三石で組んでいる。これ以外に築山にはあまり目立つ石組はない。門を入った入口や東部の池泉周囲には、若干の盛土が認められる。入口の盛土は目隠しのためであり、東部はより立体的にしたのであろうか。
鶴・亀島は池泉の奥部に設け、やや南禅寺金地院(京都)風な感覚をもつ。池中に岩島のほか舟石と思われるものが二石組まれている。この園池へは二か所から入水していた跡が確認される。

手前右側出舟、中央に亀裂あり、左舟着石 奥部に小丘を望む(整備後)
本庭の作庭に関する記録はないが、「雪舟の弟子による作庭」との伝承がある。常栄寺の庭に、中島や池の地割が類似する点があるところから生じたのかも知れない。内藤氏は正徳五年(一七一五)に名字差免状が与えられている。庭園の技法から言っても江戸時代前期末のものではないだろうか。
屋敷跡に庭園だけが残されている。優れた庭であり、屋敷跡とともに庭の保存が望まれる。」
(六) 平成七年一月十四日~十六日
三日間を要して内藤庭の整備・本格調査を行う。雪の中山口県庭園調査委員の西桂氏に現地指導を願い、業者七名他二名の協力で雪の中作業開始。かつて庭に存在した若木や竹の類は既に除去されていたが、亀島と出島(旧宅に近い方)にそれぞれ実生と思われるヤマモミジが成長にまかせて樹勢旺盛であった。地上三〇cmのところで前者は径二七cm、後者は四〇cmである。秋には誠に美しい世界を演出してくれるが、西氏は自生したもので庭園構成上撒去すべきと判断された。特に出島のモミジ撤去は石垣上にあり手作業のため長時間を要した。
亀島のモミジは径二七cm、これは当然撤去すべきもので、このモミジの成長によって東端へ寄っていた亀甲石を中央に約三〇cm戻し亀頭石は約一五cm程高く据えかえた。以上で亀島の整備は完了したが惜しむべきは、亀頭石の先端が折れておりこの部分を丁寧にさがしたが折れ石は発見されなかった。亀頭石が小さく見え気勢を欠くのはこのためである。鶴島は鶴首石の先端を若干引上げ景観を動的にした。

亀島局部 亀頭石が小さく見えるのは先端が欠失したためである。 (整備後)

中央が鶴島全景 (整備後)
庭園北側屋敷寄りに半ば埋れた細長の横石がある。横石として使用されていたものか転倒したものか容易に判断しがたい。西氏の指導でひとまず一方を浮かせて検討、この結果具象的な陰陽石を構成するものであることが判明した。『下松地方史研究』第二十八輯(10頁)で「旧宅寄りに手水鉢風の自然石があるが、付近の山から素材を求めたものであろう。当初からのものとは考えにくい。」と記したが、右の転倒した石は極めて具象的な陽石で、手水鉢風の石は陰石として一対をなす重要なものであった。当初この置石を倒石と断定するに至らず手水鉢風の石と一対をなすものとは思い及ばなかった。不要と考えられた鉢状の石の存在理由が明確となったことは整備による大きい成果である。尚その周囲に数個の埋れた倒石もあったがいずれも旧規通り復元した。放置された池はどこも泥土で埋っているのが普通だが、内藤庭には多量の泥が存在しない。いつの時代かに泥土は池辺周囲や中島に移されこれが付近の倒石や飛石を覆う結果になったのではないであろうか。

陰陽石組 中央立石は陽石(驚くほど具象的である)左下の鉢状の石は陰石(整備後)

中央立石は西桂氏(山口県古庭園調査委員)の本格調査により陰陽石と推考された。
それ以前は転倒しほぼ地中に埋れていた。平成七年一月修復。

飛石付近から陰陽石・枯滝源流を望む (整備後)
右の陰陽石は、子孫繁栄を願う一種の吉祥庭(蓬莱庭)で鶴亀島・舟(宝)石等とともにいずれも共通する性格を有し写意庭とも称すべきものである。
瀬戸村の如き一寒村の庄屋に前述の如く二島を有する池庭が造られたことは、当時としては稀なことである。島は後世の補作の可能性もあり整備の途中二島を調査。その結果池を掘る際島の部分を掘り残して池を穿っていることが判明。即ち中島の地割は当初からの計画であったことが今回の本格調査により明らかとなった。中島前方の魚溜は後世つけ加えた可能性が強く、島が壊れる可能性もあって西氏の判断でひとまず埋め戻すこととした。又枯流部他に若干の小さな埋れ石が発見され旧規通り復元された。

整備中・左端の前屈みは山口県古庭園調査委員の西桂先生 (平成七年一月十五日)
(七) 平成七年一月二十日
亀島と池辺要所に大杉菩後部に石蕗を植栽。
(八) 平成七年三月三日
市文化財審議会に於いて下松市内の未指定文化財特に内藤家庭園の保存対策を検討すべく提案。詳細な実測図の作成と案内板を要請。市教育委員会より山口県古庭園調査委員の西桂氏に意見書を依頼。
(九) 平成七年五月二十六日
内藤家庭園を下松市文化財審議委員・教育委員会視察・西桂氏の意見書にあわせて庭園を現地説明。
(十) 平成七年七月十日
下松市文化財審議会に於いて旧内藤家庭園の文化的価値について検討。公開の際所有者に於いて充分な管理が可能かとの指摘あり。「文化財保護法」(第四条二)「下松市文化財保護条例」(第三条・十五条)による一般公開に関する意見である。
(十一) 平成七年八月十二日
池泉後部を中心に石蕗を追加植栽。
(十二) 平成十一年十月八日
下松市文化財審議会に於いて内藤庭の文化財としての今後の保存と取扱いについて検討。
(一) 昭和四十九年九月
「うちの古屋敷にも雪舟の弟子が造ったという古い池があるが…」内藤善夫氏からこの話をききさっそく米川の内藤庭を拝見する。竹が屋敷跡を経て更に庭の一部にも侵入し、飛石や拝石は土に埋もれ、倒れた石の中にも埋ったものが数石確認される。自生と思われる雑木も成長している。だが、モミの巨木・二石による簡素な枯滝石組・池泉の舟石・岩島・中島又池辺には出島礼拝石等を有し、当時の百姓庭としては、かなり広く池は奥深く充分な学術的価値が認められる。県内の庄屋庭としては最古級に相違ない。無住の故に改変をまぬがれたのであろうが、この時代一山村の庄屋がいったいどこからかかる技術者を招いたのであろうか。倹約令下にあって百坪もの作庭が可能であったか。直ちに発表・整備保存を内藤氏に相談したが、「今は庭どころではない、そのようなことをして貰っても……」と言われるあっけない返事であった。理解されないことが残念であった。だがその際侵入した数本の竹は至急伐採するよう、石の位置、池周辺の盛土等一切変更なきようこの方は約束を取付けた。四十九年九月二十二日のことである。飛石を埋めた土を取り払いながら、簡単な平面図を作成。しばらくして下松地方史研究会での発表を再度お願いするも余りよい返事は戴けなかった。
その後気になって何度か庭園を拝見したが無住であることが幸してか石組・地割等にも変更がない。又願い通り竹や雑木の類も取のぞかれていた。雑草は今まで通り茂って石組がほとんど見えないが、古庭園の遺構保存としては余り問題とはならない。まずは安心である。
(二) 平成三年六月
下松市教育委員会の原田氏から連絡があり県内の古庭園を県教育委員会が三年計画で踏査する由、山口県に於いては、未だ踏査が実施されていないため、古庭園の分布状況すら不明である。昭和五十五年から県が着手している未指定文化財調査の一環として、今回古庭園調査を実施する由。必要に応じて保存措置を講じるための第一歩である。調査委員は吉川需氏(文化財保護審議会・名勝部会長・文化庁技官)と西桂氏(兵庫県立農業高校教諭・現在兵庫大学講師)である。西氏は今まで鎌倉時代とされた古茂池庵庭園(兵庫県朝来郡山東町)の旧説を覆されたことで学会では有名だが面識がない。一方吉川氏は今まで何度も古庭園のことでご指導をいただいた経緯がある。
下松市からも写真に推薦理由を付けて数庭を提出するよう依頼されたので、花岡八幡宮境内の三庭・降松神社臥牛の庭・米川内富家池泉庭(涸)を提出した。数日後原田氏から他に一、二庭を追加推薦するよう県から申し入れがあった旨連絡を受けた。二十年近くを経ていることもあって、思いきって内藤氏に相談したところ快諾をいただいたので早速内藤庭を加え四庭とし、写真は教育委員会にお願いし推薦文は私が作成して、市から県文化課へ提出。
(三) 平成三年八月十四日
山口県庭園調査委員の西桂氏と県から山口博物館副館長の梅田正氏他が現地調査に来松、下松市教育委員会より文化財関係者数名と私が同行。西氏から庭園の説明と庭の高い評価をいただき、同家についての系譜、庄屋時代の文書・背景等については私から簡単に報告した。

山口県古庭園調査委員による現地調査 (平成三年八月十四日)
梅田・西両氏は午前中室積普賢寺の調査を行い予想以上の石庭のため長時間を要した由、私は普賢寺庭の県文化財申請を十数年来の念願としながらも苦慮していること等、今までの普賢寺庭に関する経緯を話し、同庭について記した『下松地方史研究』第二十三輯を贈り見解を托した。
(四) 平成四年二月
『下松地方史研究』第二十八輯に内藤氏庭園を掲載。同時に研究発表に於いて県内庄屋級の池泉としては、最古級の貴重な遺構であること又、保存対策の必要を強調する。
(五) 平成六年四月
山口県教育委員会より山口県未指定文化財調査報告書『山口県の庭園』が出版される。執筆は西桂氏の他西岡義貴氏(山口県教育委員会文化課文化財専門員)百田昌夫氏(同文化課課長補佐)が担当。市内では、花岡八幡宮・内藤家二庭が掲載されている。内藤庭に関する主要な部分は次の通りである。一部を引用しよう。
「(前略)母屋が北側にあり、この座敷からの景観を主景とした作庭であるが、門から玄関に至る経路よりの景観も中心である。
池泉は、比較的大きく穿ち、奥に枯滝を組み、中島に鶴・亀島を配している。全体的に地割はゆったりとして、奥行きのある池泉と言える。
枯滝は、モミの巨木のふもとに九〇cm高の山形の花崗岩石を前に傾斜させ、これを中心に三石で組んでいる。これ以外に築山にはあまり目立つ石組はない。門を入った入口や東部の池泉周囲には、若干の盛土が認められる。入口の盛土は目隠しのためであり、東部はより立体的にしたのであろうか。
鶴・亀島は池泉の奥部に設け、やや南禅寺金地院(京都)風な感覚をもつ。池中に岩島のほか舟石と思われるものが二石組まれている。この園池へは二か所から入水していた跡が確認される。

手前右側出舟、中央に亀裂あり、左舟着石 奥部に小丘を望む(整備後)
本庭の作庭に関する記録はないが、「雪舟の弟子による作庭」との伝承がある。常栄寺の庭に、中島や池の地割が類似する点があるところから生じたのかも知れない。内藤氏は正徳五年(一七一五)に名字差免状が与えられている。庭園の技法から言っても江戸時代前期末のものではないだろうか。
屋敷跡に庭園だけが残されている。優れた庭であり、屋敷跡とともに庭の保存が望まれる。」
(調査報告書 二九頁)
(六) 平成七年一月十四日~十六日
三日間を要して内藤庭の整備・本格調査を行う。雪の中山口県庭園調査委員の西桂氏に現地指導を願い、業者七名他二名の協力で雪の中作業開始。かつて庭に存在した若木や竹の類は既に除去されていたが、亀島と出島(旧宅に近い方)にそれぞれ実生と思われるヤマモミジが成長にまかせて樹勢旺盛であった。地上三〇cmのところで前者は径二七cm、後者は四〇cmである。秋には誠に美しい世界を演出してくれるが、西氏は自生したもので庭園構成上撒去すべきと判断された。特に出島のモミジ撤去は石垣上にあり手作業のため長時間を要した。
亀島のモミジは径二七cm、これは当然撤去すべきもので、このモミジの成長によって東端へ寄っていた亀甲石を中央に約三〇cm戻し亀頭石は約一五cm程高く据えかえた。以上で亀島の整備は完了したが惜しむべきは、亀頭石の先端が折れておりこの部分を丁寧にさがしたが折れ石は発見されなかった。亀頭石が小さく見え気勢を欠くのはこのためである。鶴島は鶴首石の先端を若干引上げ景観を動的にした。

亀島局部 亀頭石が小さく見えるのは先端が欠失したためである。 (整備後)

中央が鶴島全景 (整備後)
庭園北側屋敷寄りに半ば埋れた細長の横石がある。横石として使用されていたものか転倒したものか容易に判断しがたい。西氏の指導でひとまず一方を浮かせて検討、この結果具象的な陰陽石を構成するものであることが判明した。『下松地方史研究』第二十八輯(10頁)で「旧宅寄りに手水鉢風の自然石があるが、付近の山から素材を求めたものであろう。当初からのものとは考えにくい。」と記したが、右の転倒した石は極めて具象的な陽石で、手水鉢風の石は陰石として一対をなす重要なものであった。当初この置石を倒石と断定するに至らず手水鉢風の石と一対をなすものとは思い及ばなかった。不要と考えられた鉢状の石の存在理由が明確となったことは整備による大きい成果である。尚その周囲に数個の埋れた倒石もあったがいずれも旧規通り復元した。放置された池はどこも泥土で埋っているのが普通だが、内藤庭には多量の泥が存在しない。いつの時代かに泥土は池辺周囲や中島に移されこれが付近の倒石や飛石を覆う結果になったのではないであろうか。

陰陽石組 中央立石は陽石(驚くほど具象的である)左下の鉢状の石は陰石(整備後)

中央立石は西桂氏(山口県古庭園調査委員)の本格調査により陰陽石と推考された。
それ以前は転倒しほぼ地中に埋れていた。平成七年一月修復。

飛石付近から陰陽石・枯滝源流を望む (整備後)
右の陰陽石は、子孫繁栄を願う一種の吉祥庭(蓬莱庭)で鶴亀島・舟(宝)石等とともにいずれも共通する性格を有し写意庭とも称すべきものである。
瀬戸村の如き一寒村の庄屋に前述の如く二島を有する池庭が造られたことは、当時としては稀なことである。島は後世の補作の可能性もあり整備の途中二島を調査。その結果池を掘る際島の部分を掘り残して池を穿っていることが判明。即ち中島の地割は当初からの計画であったことが今回の本格調査により明らかとなった。中島前方の魚溜は後世つけ加えた可能性が強く、島が壊れる可能性もあって西氏の判断でひとまず埋め戻すこととした。又枯流部他に若干の小さな埋れ石が発見され旧規通り復元された。

整備中・左端の前屈みは山口県古庭園調査委員の西桂先生 (平成七年一月十五日)
(七) 平成七年一月二十日
亀島と池辺要所に大杉菩後部に石蕗を植栽。
(八) 平成七年三月三日
市文化財審議会に於いて下松市内の未指定文化財特に内藤家庭園の保存対策を検討すべく提案。詳細な実測図の作成と案内板を要請。市教育委員会より山口県古庭園調査委員の西桂氏に意見書を依頼。
(九) 平成七年五月二十六日
内藤家庭園を下松市文化財審議委員・教育委員会視察・西桂氏の意見書にあわせて庭園を現地説明。
(十) 平成七年七月十日
下松市文化財審議会に於いて旧内藤家庭園の文化的価値について検討。公開の際所有者に於いて充分な管理が可能かとの指摘あり。「文化財保護法」(第四条二)「下松市文化財保護条例」(第三条・十五条)による一般公開に関する意見である。
(十一) 平成七年八月十二日
池泉後部を中心に石蕗を追加植栽。
(十二) 平成十一年十月八日
下松市文化財審議会に於いて内藤庭の文化財としての今後の保存と取扱いについて検討。