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(一) はじめに

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 大内氏と下松は、きわめて由緒の深い関係にある。十一代茂村の代に鷲頭山妙見社を大内氏の本拠地氷上に勧請して氏神とする等、その崇敬ただならぬものがあった。そのことは『大内多々良氏譜牒』『大内家壁書』『氷上山興隆寺縁起』『正任記』等に明らかなところである。
 又末武保は、末武及び生野屋付近を領域とした国衙領であって、山陽道の駅として、『延喜式』に載る生屋駅や『和名抄』に記載の「生屋」は、この附近であろう。更に中世末の頃には花岡八幡宮に既に九ケ寺の社坊があり、毛利八ケ国時代には、社領一三六石余を有している。

花岡八幡宮参道(昭和三十五年頃)

 このような関係にありながら、年代の明確な中世石造物の遺品は、ほとんど下松には発見されていない。ここに掲載した石造物はほぼ近世の造品であり、そのなかで記憶にのこるめぼしい遺品を美術品としてではなく、民俗資料として出来るだけ広範囲に、項目別に分けて紹介したいと思う。本論は郷土史の一環として庶民生活に於ける石造物を考えるものである。
 尚石造物調査は、河内村に関しては既に昭和三十年頃から行った資料を利用し、他の十ケ村は宝城興仁先生の要請で平成元年・二年の二ケ年に急遽踏査したものである。私は石造物が専門ではなく調査は極めて短期間で調査漏れも多く、又材質・種目・銘文の判読等にも不正確な点があろうと思うが、了解を願いたい。将来どなたかによる全遺品の洗い直しの機会があれば幸である。(尚石造物の実在数は旧藩時代の遺品を対象としたものである。)