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(二) 宝篋印塔(瀬戸・大藤谷)

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 宝篋印塔の造立は、五輪塔よりおそく、鎌倉期に至って密教系の塔として「宝篋印心呪経」を納めた一種の供養塔であったという。のちこれに「法華経」を納めたり、又墓標として造立されることもある。
 山口県内では、建武元年(一三三四)の刻銘がある柳井市金剛寺の塔が在銘最古であるが、塔身・相輪は後補(『山口県の石造美術』内田伸)という。
 下松市内では、米川の宝篋印塔が年代の刻銘はないが、南北朝期のもの(内田伸氏談)と推定される。損傷の小さいものとして、市内最古の遺品である。この塔は、大島郡東和町の宝篋印塔と容姿が共通しており、造立は下松の鷲頭氏が周防一国に号令していた時代である。

米川瀬戸・宝篋印塔 南北朝時代


同宝篋印塔実測図

 塔の石質は、軟質の花崗岩で塔の上部相論は、四段完全で五段目にかけて一部欠失し、これより上段と請花・宝珠は存在しない。現存する高さは地上三尺四分で、下方に基壇、その上に基礎がある。基礎石四方には、格狭間を刻み、その上部に反花がある。塔身には各面に次の如き梵字がある。
    前面 アーク・不空成就如来
    左面 ウン・阿閦如来
    右面 キリーク・阿弥陀如来
    裏面 ヌラーク・宝生如来
 笠の隅飾はごくわずかに外方に開き、形式は、南北朝を示している。笠の下部は二段(各一寸)上部は、六段で(各、八分)である。この上に伏鉢(高二寸)更に請花(一寸四分)がある。さてこの塔は、現在数基の石堂・宝篋印塔・五輪塔とともに瀬戸の某家の墓地に移転され自家の墓標として管理されている。これらの塔墓は、村では古くから河内神社を創建した瀬戸の領主内山美濃守に関わる(『下松地方史研究』第二十五輯山本ミツヱ参照)供養塔と伝えているだけに私物化は、遺憾なことである。早期に返還を求めるべきである。
 他に米川(大藤谷)には、杉ノ元祐一門の墓と伝える宝篋印塔がある。数は現在十基程度と思われるが塔は寄せ集めたと伝え、事実不揃である。宝篋印塔の石質(安山岩)・格狭間・隅飾突起等から推して、江戸初期以前のものである。

大藤谷・宝篋印塔群

 『地下上申』寛延元年(一七四八)に次の記載があるので掲載しよう。杉元祐と当所の関係については後考に委ねるとしても、土居の地名は重要である。
  一小名之内土居と申ハ、昔杉ノ元祐当所ニ居住被仕たる由其節之屋敷跡今百姓作兵衛と申者居申候屋敷を土居と申伝候、元祐御菩提所、今庄屋藤井長右衛門屋敷後ニて御座候、寺号良昌庵と申、其節之本尊薬師如来残り居、今当村に薬師堂一宇有之候、右元祐石塔と申、右寺地之上ニ五輪之古墓数多御座候処崩損し、只今ハ壱ツ計残り居申候、残り之分土ニ埋れ、右残り候壱ツ之分台石より九輪まて高サ弐尺程御座候得共、無銘ニ付いつれ之墓とも相知不申、右之趣申伝候へ共慥成義も無御座、申伝計ニて御座候、右良昌庵大破之趣、元祐時代之儀も相知れ不申、良昌庵住持豊後の国より住職被仕、存生之内地下人え頼被置、其趣ハ生国見え候山え葬送仕呉候やうニとの儀故、当村南之方松長と申所之嶺尾より豊後之国見へ申ニ付此山え墓を築、印ニ桜の木御座候、其故山の名石塔平と申来候、此趣も誠ニ里人申伝御座候事