のち毛利の時代に至り元和三年(一六一七)就隆は、下松を中心に三万余石の分知を受け、寛永元年(一六二四)母堂周慶大姉の位牌を大蓮寺に安置し、同時に寺領五〇石を寄進し、林松山大蓮寺を麟祥山周慶寺と改めている。その後徳山に大成寺を創建し菩提寺としているが、その後も周慶寺は、周慶大姉の他代々藩主の位牌を安置し、御宿泊等深い関係を保っている。
清泰院(秀就・就隆の母)は、児玉三郎右衛門の女で、初め杉次郎左衛門に嫁した後、輝元の側室となって、長子秀就(大照院殿)、次子就隆(発性院殿)を生み慶長八年(一六〇三)輝元の帰国にともない百助(就隆)を連れて山口入りするも翌年七月晦日に卒している。(以上『下松市史』参照・他に江戸邸にて逝去とする説あり)又秀就は、母清泰院のために山口の古熊に周慶寺を建立し寺領六二石を与えている。更に就隆は、清泰院の位牌を下松の大蓮寺に安置し寺名を寛永元年(一六二四)に周慶寺と改号(改号年月に異説あり)したこと前述の通りである。
尚墓石について記すと、塔身(高さ四尺四寸五分)及びその基礎(高さ一尺)は自然石で、更にその下に二壇の花崗岩の基壇が在る。銘文は存在しない。供養塔と言うべきであろう。尚以上は現在高さ四尺の石垣上に造立されているが、この部分は昭和期の補作である。
周慶寺・清泰院供養塔(刻銘不在)
大蓮寺(のちの周慶寺)の開山は、壹角岌翁である。その墓石は無縫塔(卵塔)で歴代住職墓の奥部の中央に安置され、地上総高四尺八寸五分、二段の基壇(高さ五寸・七寸)の上に四角形の基礎(高さ一尺)を置き、その上に球形台(高さ一尺)最上部に塔身(高さ一尺六寸五分)が立っている。次に材質は基壇が花崗岩で塔身・球形台・基礎は安山岩である。よく寛永期の特徴を有している。基礎部に次の如き刻銘がある。
正面右側
廣蓮社乗誉
正面中央
當寺開山
正面左側
壹角岌翁和尚
右側面
寛永七庚午年
左側面
七月廿五日
(但し右の年号は入寂日ではなく追善による墓石の建立年月日である)
周慶寺開山岌翁上人墓 寛永七年(一六三〇)在銘 (基礎部)
次の二世・三世、四世・五世、六世・七世、の各無縫塔三基の墓も明らかに後世の造立である。『防長寺社由来』寛延二年(一七四九)周慶寺十五世兼誉の上申書に
「二世頼誉、三世良空(河村註墓石銘文は然誉)、四世源誉、五世呑誉、六世増誉、七世心誉ト古過去帳ニ見ヘタリ、位牌年号月日共ニナシ、後ニ建立ス」
と記し又同書、周慶寺の由来書にも
(前略)自爾已来相承七世、漸々衰廃矣、至第八世貞誉上人、大建法幢度脱群生
(以下略)
と記していて七世心誉までの間寺の疲弊を思わせるものがある。