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(五) 松心寺永心院・祥光院・長昌院墓石

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 松心寺は、はじめ永心寺と号していた。即ち毛利就隆の側室法名永心院殿月窓永心大姉、寛永十六年(一六三九)八月二十一日卒のため翌寛永十七年(一六四〇)に永心寺として創建したものである。又同息女祥光院は、寛文十年(一六七〇)正月十一日逝去。更に祥光院の乳母であった長昌院・承応三年(一六五四)八月二十日逝去をそれぞれ同寺に安置したが、のち大成寺建立に付徳山に引いている。元禄八年(一六九五)七月十八日其旧蹟に建咲院四世白翁傳太を迎え、伊賀崎幾右衛門が施主となって松心寺を建立し現在に至っている。(本誌十八章 松心寺の項参照)

伊賀崎家墓碑 文化三年(一八〇六)

 寺の経緯は右の通りであるが、次に永心院・祥光院・長昌院の墓石について、順に紹介しよう。
 まず毛利就隆の側室永心院の墓石は次の通りである。
    形式  宝篋印塔
    石質  安山岩
    地上高 四尺八寸九分
    玉垣  二間二尺四方
      (実測図参照)
  銘文
    月窓永心大姉
 材質は安山岩で寛永期の代表的遺品である。基礎は中央部がやや広く上半部に反花を刻む、平坦な面にやや図案化したものを線彫している。笠の隅飾りは、寛永期らしく少し外に開いていて相輪は太く短かく三輪である。尚周囲玉垣は、地上高四尺幅二間二尺同奥行二間二尺である。

永心院墓 寛永十六年(一六三九)在銘 (毛利就隆側室)(昭和三十年頃撮影)


永心院墓石 宝篋印塔実測図

 毛利就隆の息女祥光院の墓標は、次の通りである。
    形式  五輪塔
    石質  花崗岩
    地上高 七尺三寸
    玉垣高 三尺五寸
      (実測図参照)
  銘文
    寛文十年戌年
   祥光院殿瑞中以松大姉
    正月十一日
 地上高七尺三寸(赤味の花崗岩)を有して実に大きなもので、基壇に反花をつけている。基礎正面には、右の如き刻文があるが、他に梵字等は刻まれていない。

祥光院墓 寛文十年(一六七〇) (毛利就隆息女)(昭和五十年頃撮影)


祥光院墓石 五輪塔実測図

 祥光院の乳母長昌院の墓石は、次の通りである。
    形式  笠塔婆
    石質  安山岩
    地上高 三尺五寸六分
      (実測図参照)
  銘文
     承應三年
  長昌院殿幸安寿慶大姉
     八月廿日
 長昌院は、息女祥光院の乳母であって、承応三年(一六五四)八月二十日逝去後永心寺に安置したものである。軟質の平野石のため塔身上部に風化・磨滅が認められるが、塔身は四角で下方に基礎がある。笠の上に宝珠等は造られていない。(尚右の三基はいずれも平成元年本堂新築の際移動されている)

長昌院墓 承応三年(一六五四)在銘 (祥光院乳母)


上・松心寺本堂姿図 下・平面図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』


松心寺境内周辺図 左側の斜線が参道でかつて左右に杉の老樹が在り参道の入口を馬場と称していた。
『都濃郡河内村明治二十年地誌』


松心寺境内及び裏山石造物等位置図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』


右・祥光院 中央・永心院 左・長昌院各墓石実測図 『都濃郡河内村明治二十年地誌』