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(六) 清安院五輪塔

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 清安院の経歴については、史料によって若干の差異があるが『旧記抜書』は次の如く述べている。
  一就隆公御乳母あつ毛利與三娘奈古屋對馬妹、初後藤勘右衞門(吉見家臣)へ嫁ス、夫不幸之後御乳母ニ被仰付候、光井左馬爲ニ叔母也、就隆公御成長之後家領二百石楢崎氏江嫁ス、故有家絶、其後下松豐井ニ而出産男子出生、楢崎氏嫡子也、然れ共母方之奈古屋ヲ名乗居、奈古屋治郎左衞門と申候、其子楢崎源内元次公御部屋住之時分御小姓ニ被召出候、あつ御扶持可被下之段被仰渡候へとも初ハ御斷申上、後拾石ツヽ被下候、其後於江戸不幸法名清廣院光譽榮眞大姉、二本榎浄土宗清凉山松光寺、寛永廿一甲申三月十三日付り、此廟所周防徳山之内大河内ト申所ニ有之由此所別紙ニ左之通有之
  一(別紙)就隆公御乳母御紙面之通對馬妹ニ而初後藤勘左衞門へ嫁し後御乳母ニ被仰付候、爰元ニ而之廟所も豐井村妙法寺後山ニ有之
  一(同)あつと申者光井左馬丞妹[御乳母之姪也]楢崎與三兵衞元好[萩御家來]嫁、後就隆公御養ニ而御乳母ニ被付置候
  一(同)楢崎與三兵衞元好三男治郎兵衞隆次あつニ隨イ徳山罷越候故一生奈古屋と名乗申候其子源内本名之楢崎ニ相改候
  一(同)次郎兵衞事就隆公御側相勤候内趣有之、永ク之御暇之義度々申出候處ニ願之通被仰付、他國浪人之義は被差留、御領内豊井村ニ被差置、尤御捨扶持被下之候
 清安院殿の五輪塔は、妙法寺境内より北東へ十間余り登った寺の裏山に造立されている。(現在は大谷墓地へ遷されている)
    石質 花崗岩
    総高 一間四尺六寸
地輪に次の如き銘文がある。
    寛永廿一年
    清安院殿
  孔光誉栄真
     大姉
    三月十三日
 この五輪塔は江戸初期の特徴をよくそなえていて水輪は高さ一尺九寸であるが、横に張っている。火輪の軒は中央で薄く、両端が厚く、上を向いている。空輪の上部はとがり、火輪に対して大きく造られている。地輪の刻銘は前述の通りである。基壇上部に反花が深く彫られている他空輪ケン、風輪カン、火輪ラン、水輪バン、地輪アンの梵字が大きく刻銘されている。
 尚この五輪塔は当初清安寺に安置されていたと推察されるが、清安寺の開山本流長意和尚(清安院の甥・龍文寺の弟子)が遷化すると毛利氏によって、清安寺は廃寺され、位牌は、妙法寺に移されているので、この折清安院五輪墓、開山本流長意無縫塔(卵塔)も同時に妙法寺裏の墓地に遷されたものと思われる。

清安院(五輪塔)本流長意(無縫塔)は妙法寺(写真)の裏山にあったがバイパス建設のために大谷墓地に遷された。

 尚現在はバイパスの建設により、広々とした大谷ダム入口の妙法寺墓地に両墓とも再移転されている。墓地中央奥部に安置されている市内最大の巨大な五輪塔と、その横の無縫塔がそれである。本流長意の墓標は、地上総高二尺六寸四分の質素な石塔である。基壇は高さ一寸六分程の薄いもので、よく古制を残している。小さな墓石は、いかにも清安院菩提に一生を捧げた長意和尚のお姿のように思えてならない。基礎の銘文は次の通りである。
     元禄三庚午年
    本流長意和尚
     七月廿五日

大谷妙法寺墓地
中央・清安院(毛利就隆乳母)五輪塔・向ってその左横が開山本流長意・無縫塔・地上二尺六寸余の小さな墓標は長意和尚の信念を示すかのようである。


 大谷墓地には他に寛永・元禄の刻銘のものが数墓ある。尚、市内の他の寺院にも同時代と思われる卵塔等が相当存在しているが、安山岩のため造立時代が判読不能であり、今回は取り上げないことにした。