周防都濃郡下松庄下松周慶寺末
浄土宗光照山浄西寺
と記されている。又『山口県寺院沿革史』には、寺の創建は、天正六年(一五七八)三月十日、浄蓮社清誉光照是頓比丘によるもので彼は、俗姓磯部常安、浪人して当国下松に居住し、先祖の菩提供養のため、名を是頓と改めて当寺を創建せしものという。

浄西寺・磯部氏墓標 (整備前・昭和三十年頃撮影)

浄西寺・磯部氏墓標 中央(右)天正十九年(一五九一)在銘 中央(左)寛永十六年(一六三九)在銘

磯部氏墓標(昭和四十年頃撮影) 中央奥が天正・寛永在銘墓石
さて天正十九年(一五九一)夘五月十五日の紀年銘を有する墓石は、是頓の父母即ち宗安夫婦のものである。現在上部の相輪(?)は欠落している。その下部の請花は、宝篋印塔の隅飾のようで、上部欠失のため判然としないが、所謂宝篋印塔の笠の形をしていたと思われる。更に下三段の基壇は高さ六寸九分・六寸六分・八寸二分の三段となっている。上部欠落部をのぞいた高さは、地上四尺八寸、下部基壇の幅は二尺四方である。
右の墓石のすぐ横に開山磯部常安夫婦の墓石が在る。刻銘年号は、寛永十六年(一六三九)己夘五月十七日と慶安四辛夘(一六五一)五月九日が刻まれ右の宗安の墓石とは、年代差があるが、石質形容ともによく似ている。しいて言えば屋根の軒反、基礎の面取手法に若干の差異が認められる程度であって、両墓は、意識的に設計造立したものである。尚刻銘は、先の場合没年時であるが、石塔の造立は後世であろう。
磯部家は藩札の発行、塩田主として知られているが、当家は正徳五年(一七一五)下松屋時増(五代)が家督を長男に譲り、次男とともに、これと前後して豊井村に干潟開作を行い塩田地主として成長したものである。磯部家の史料によると、享和三年(一八〇三)と文化十一(一八一四)には、徳山藩主が磯部氏(宮洲屋)の邸宅にある「覧海軒」を訪れている。又寛政八年(一七九六)には、銀六〇貫目、享和二年(一八〇二)には、銀八〇貫目、天保三年(一八三二)に銀二〇〇貫目、明治元年に金二、〇〇〇両を藩へ献納し翌明治二年には金三、〇〇〇両を藩が借用した事が明らかである。
磯部家は、このようにして阿部・矢田部と共に周防の三部として栄えており、文化十四(一八一七)年の長者番付では、周防に於いてただ一人磯部義助が、西方前頭十八枚目に挙げられていて、三部の中でも君臨している。このような事情で浄西寺には、寛永以降多数の磯部家一族にかかわる立派な墓石が建立されている。
他に当寺には、開山浄蓮社清誉光照・寛永十二年(一六三五)十一月日紀年銘の無縫塔(卵塔・花崗岩)があるが後世の補作である。
市内有縁墓の内元禄期のものは、相当数にのぼるが、それ以前となると遺品は逓減する。
旗岡の新墓地に、小嶋想兵衛の墓石が移転されている。(註一)
元禄の頃、下松に於ける有力町人としては、先の磯部家と小嶋家が挙げられる。両家はともに藩の御用商人的特権を有しており小嶋家は、土佐の豪族長曽我部の出(小嶋家系)で既に元禄年間七〇〇石積の大廻船を所有し北陸米や防長米を大阪に運んでいたことが藩の『御蔵本日記』から明らかである。同日記元禄十四年(一七〇一)十二月の項によると小嶋惣兵衛の家督を子助之允(助之丞)がついだが助之允の死後子惣二郎は五才、このため助之允の弟惣介(惣兵衛)が家督をつぎ、五才の惣二郎をその養子としたき旨の願い出があり許可されている。(右の両家については、『下松市史』第三編四章を参照されたい)
ここでは先代想兵衛と助之丞の墓石銘文を記して置きたい。石質は何れも赤味の花崗岩で戒名の上にキリークの梵字が刻まれている。墓石の上部は山形に切られ板碑に近い形をしている。
正面
延宝丁五年
〓 高譽西雲源暉居士
巳正月二十日
側面
小嶋想兵衞

旗岡墓地・小嶋想兵衛墓石 延宝五年(一六七七) 元禄年間既に七〇〇石積の大廻船を有していた。
次に子助之丞の方は次の通りである。
正面
覺譽正本道知居士
元禄十四辛巳年五月七日
小嶋助之烝四十一才
側面
下松 町
市内に於ける元禄年代の墓標の内、同姿のものが大藤谷河内神社横や小野養光寺寺山にある。前者は大藤谷藤井家(『地下上申』寛延時代の大藤谷村庄屋藤井長右エ門家)のものであるが、残念乍ら銘文が判読できない。後者は、養光寺(元永興寺・共に廃寺)住職(宝誉徹巖)の実家でもあった小野玉井弥左衛門家のもので現在は無縁であるが、時代は寛文・元禄(裏面の俗名は後刻)である。

大藤谷藤井家墓石
瀬戸には、旧家内山家が在って貞享二年(一六八五)の刻銘があり石室も多数あるが、現在は津和野に移住され参詣がないのが残念である。市内最古とされる南北朝期の宝篋印塔も当家に関係するものと伝え又瀬戸河内神社も、はじめ当家の鎮守社として創建されたという。(『大鎮守縁起』天文十年・一五四一・本誌『内藤家庭園』の項参照)

瀬戸内山家墓石 貞享二年(一六八五)他
旧河内村で民家有縁墓では吉原清木彦一家・谷藤田包美家等に元禄期の墓石を有する。

切山大木家墓石 元禄四年(一六九一)
それらの内で、久保市の旧家倉田照雄家のものが最も古く貞享・元禄期のものが西蓮寺境内に造立されている。形式は塔身上部が山形に切られ、下部はやや幅が狭く、上部月輪(がちりん)内に、種子を刻むものもある。安山岩製で塔身は薄く造られていて、この時代の特徴をよくそなえている。河内村に於ける貴重な遺品である。

西蓮寺境内・倉田家墓石 貞享元年(一六八四)在銘他
その他末武・花岡方面には八木家・中村家・上原家・野村家・堀家等の大庄屋に元禄期以前の墓碑が遺存している。これらは系図等の捏造文書と異なり貴重な研究資料の一つである。

花岡上原家墓石 延宝五年(一六七七)
藩政時代大庄屋格の家には、必ず屋敷神が祀られていた。その内の一つを紹介しよう。大庄屋森重家(平田)は、帯刀御免の家格で、『都濃郡宰判本控』によると天保十四年以降だけで大庄屋を四回勤めている。又、同じく末武の大庄屋原田庄左衛門の同族であって、両家の墓所が西蓮寺境内に並んで造立されているのはこのためである。

森重家旧屋敷神 この周辺が森重家の屋敷であった。 (昭和三十年頃撮影)
合武三島流の森重靭負(『都濃郡誌』参照)は当家の出身で、幕府の御書院与力となり兵学を講じている。当家の開設した森重塾は、平田小学校を経て現在の公集小学校に至っている。
広大な森重家の屋敷は現在田圃と化し次の如き鳥居と石祠がその一角にひっそりと佇んでいる。それぞれの刻銘を紹介しよう。
鳥居右柱銘文 文化二丑春
同左 願主 森重甚左衛門直政
石殿銘文
右側面 明治廿一年
三月十七日再建
内部中央 両社大明神
左側面 願主
森重正喜
沓屋純助
(註一)小嶋惣兵衛については『下松地方史研究』第三十三輯・小山良昌氏に詳しい研究がある。