盃状穴は既に先史時代にヨーロッパに於いて事例があり、韓国京幾道琴南里では、六基の支石墓の蓋石に盃状穴が見出されるという。(註一)
我国に於いては、福岡県三雲遺跡の弥生前期の支石墓の蓋石に、人為的盃状穴と思われるものが、昭和五十年初発見されている。又、箱式石棺墓で盃状穴が確認されたのは、昭和五十五年五月十八日山口市神田山石棺群第一号墓(古墳時代初頭)によるものが、我国における初見である。このことが古代文物の新発見として、当時ニュースとなりそれ以後この盆地周辺に於いて、次々と盃状穴板石の所在が確認され、二十例以上の発見が報告されている。これらはいずれも半島の支石墓の蓋石に刻まれた盃状穴に酷似することから、その目的は判然としないものの共通する習俗的経緯があると思われる。盃状穴の研究で有名な国分直一教授(梅光女学院大学)は、沖縄の糸満の丘地墓所に、乳房と女陰のくぼみを二次葬の遺骨を納める崖墓の壁に造形した事例を挙げている。つまりこの墓所は母胎に帰ることを考える、いわゆる帰元思想を示すもので、母胎に帰ることを再生への第一歩と考えたのである。すなわち性穴が母胎帰還への象徴を示すものなら再生は、その母胎を通して導かれると思われるからである。この説は盃状穴が性シンボルを象徴しているとの見解を示されたものである(註二)が盃状穴の中には、後世寺社に施されたもののように、新しい呪術思想(俗信的思想)の導入も当然想定されてよいであろう。即ち性穴から発した原始呪術的意図は、その遺品形態を後世に残したが、後世宗教思想の発展に即応して若干その目的を変じているとも考えられる。中村徹也氏は何かを祈って穴を穿ったその時間的空間の中に意味があるとし、線状の刻みにも注意すべきであって、今にわかに結論を急ぐことは危険であるとされている。(註三)

盃状穴板石 山口市大内間田の橋 (『神田山石棺』山口市教育委員会)

盃状穴板石 山口市大内間田の橋 (『神田山石棺』山口市教育委員会)

盃状穴板石 山口市大内千坊の橋 (『神田山石棺』山口市教育委員会)

富岡公園(陶氏居館跡)盃状穴石
板石に刻まれた盃状穴については、配置・個数・形容・大きさ等様々である。即ち板石の裏面に刻まれているものも三例報告され、穴が列状に刻まれるものや全くそのような傾向の認められないもの、深さも〇・五cmから五cm程度と一定していない。盃状穴の径は二cmから九cm程であるが、これも板石の大きさ、石質の硬度に関係はないようである。又盃状穴に彩色を施した例もあり、刻む方法についても明らかでないようだが、やや硬質のとがった石棒による突(打)製あるいは、磨製によるものであろう。盃状のくぼみには、穴の底にていねいな調整磨痕が留められている場合が多く(註四)今回私が発見の下松に於ける盃状穴も手で触ると内部はなめらかである。
盃状穴板石は、神田山第一号石棺墓出土のものを除いて他は下松と同様当初の位置から離れた場所で、いずれも他の目的に再使用されていたものである。
今回下松市大字末武上字兼光に在った盃状穴は、道路側溝工事によるもので、他所へ移した残土の中から発見されている。原位置における状態を知りえないことが残念であり、又いつ頃の作造であるかも私には分からない。
さて盃状穴石の長さは九〇cmであるが、端部が欠失しているから、当初の長さは不明である。最大幅は三八cm、厚さは一五cm、石質は安山岩である。現在盃状穴一六(内連結一)が認められ、その内最大の深さは六cm(底部にセメント跡あり)浅いものは一cmに及ばない。山口盆地の石材は、結晶片岩で穴は階段状を程しているが、下松の場合は安山岩であってそのような内部形状はない。写真と実測図は次頁に掲載の通りであるが外形が下図と似ているのは、偶然である。今後原初の用途、造形年代等について検討したいものである。

下松市末武下・盃状穴実測図 平成12年2月10日

山口市平川上平井・盃状穴板石(山口市教育委員会1981・『神田山石棺』)
(註一)『神田山石棺』山口市埋蔵文化財調査報告書第12集
山口市教育委員会
(註二)『盃状穴考』 慶友社 一九九〇年 国分直一
(註三)『盃状穴考』 同上 中村徹也
(註四)『神田山石棺』 同上 山口県教育委員会