現在明確にされているものでは、萩市川島・弘法寺のものが県内最古で基礎・竿・中台・火袋・笠が四角である。ただ火袋・笠・宝珠は、桃山時代の後補であるという。(『山口県の石造美術』内田伸著)
下松市内に於ける江戸時代の石灯籠百九十八基を踏査したが墓石の次に多いのがこの灯籠である。
『下松地方史研究』第九輯や『下松市の石造文化財』(下松市教育委員会)では、花岡八幡宮に存在する元禄十三年(一七〇〇)の灯籠を市内最古として来たが、米川神社(米川)の拝殿前方の参道には元禄五年(一六九二)の完全な灯龍二基が存在している。竿の正面に奉寄進石燈籠その右側に元禄五壬申年、左側に七月吉日後部に施主山本市 、地上総高五尺九寸四分である。竿は円形で、めずらしく三方に刻銘がある。笠・中台は例えば萩市天樹院墓地の灯籠と同様四角形であるが、やや厚く造られており、又竿は米川神社の方は円形であるが、節はない。全般にやや粗削の感がある。

米川神社灯籠 元禄五年(一六九二)市内最古
次に花岡八幡宮には元禄十三年造立の石灯籠五基が在りその内の一基を示せば、次の通りである。

花岡八幡宮灯籠 中央元禄十三年(一七〇〇)
石質 花崗岩(赤)
総地上高 六尺八寸一分
宝珠高 一尺九分
笠高 八寸三分
同幅 二尺
火袋高 一尺二寸三分
同幅 一尺
中台高 五寸八分
同幅 一尺六寸
竿高 二尺四寸三分
同径 一尺
基礎地上高 六寸五分
同幅 一尺七寸五分
銘文は次の通りである。
八幡宮燈臺 施主
田中十郎右衞門
元禄十三庚辰年
五月吉祥日
田中十郎衞門とも読めるが、貞享三年(一六八六)同宮に田中十郎右衛門が鳥居を奉納しているので同一人物であろう。他の三基は氏子中による寄進である。右の元禄十三年造立の灯籠は、いずれも火袋・宝珠の石質が他の部分と若干異っている。
この灯籠と約十年前後にそれぞれ造られた米川神社・温見神社の灯籠を比較すると、後者はかなり簡素である。花岡八幡宮の灯籠は、基礎は四角であるが蓮弁を有し、笠は四角で蕨手を欠くが、竿は中央に節をもち、中台も下方に蓮弁を有する等優美で細やかな手法が認められる。

米川・温見神社 参道 灯籠 宝永七年(一七一〇)
大藤谷河内神社宝永八年(一七一一)の灯籠奉納者藤井長右衞門は同村庄屋で、『地下上申』寛延元年(一七四八)の上申者である。
市内に於ける灯籠の内年号の刻まれた古いものを順を追って列挙すると次の通りである。

大藤谷・河内神社灯籠 宝永八年(一七一一)
灯籠造立年代 | 西暦 | 基数 | 所在地 |
元禄五年 | (一六九二) | 二基 | 米川神社 |
元禄十三年 | (一七〇〇) | 五基 | 花岡八幡宮 |
宝永七年 | (一七一〇) | 二基 | 温見神社 |
宝永八年 | (一七一一) | 三基(一部後補) | 大藤谷河内神社 |
享保二年 | (一七一七) | 二基 | 妙法寺(豊井) |
享保十五年 | (一七三〇) | 二基 | 松尾八幡宮(宮本) |
元文五年 | (一七四〇) | 一基(現存せず) | 降松神社 |
寛保三年 | (一七四三) | 二基 | 花岡八幡宮 |
寛延元年 | (一七四八) | 二基 | 降松神社(若宮) |
宝暦二年 | (一七五二) | 二基 | 降松神社(若宮) |
宝暦十三年 | (一七六三) | 二基 | 花岡八幡宮 |
宝暦十四年 | (一七六四) | 二基 | 降松神社(若宮) |
明和二年 | (一七六五) | 六基 | 恋ヶ浜、降松神社 |
明和三年 | (一七六六) | 二基 | 降松神社(若宮) |
明和六年 | (一七六九) | 二基 | 花岡八幡天満宮 |
明和七年 | (一七七〇) | 二基 | 貴布袮社(西市) |
安永二年 | (一七七三) | 一基 | 降松神社(若宮) |
安永四年 | (一七七五) | 一基 | 東光寺観音堂 |
安永五年 | (一七七六) | 二基 | 後野社(大海町) |
安永六年 | (一七七七) | 二基 | 花岡八幡宮 |
安永七年 | (一七七八) | 一基 | 下村琴平社 |
安永十年 | (一七八一) | 一基 | 貴布袮社(西市) |
安永十年 | (一七八一) | 二基 | 花岡八幡宮 |
安永十年 | (一七八一) | 一基 | 降松神社(若宮) |
天明三年 | (一七八三) | 一基 | 正福寺(西市) |
天明四年 | (一七八四) | 二基 | 降松神社(若宮) |
天明四年 | (一七八四) | 二基 | 花岡八幡宮 |
天明六年 | (一七八六) | 一基 | 岡市道沿 |
天明八年 | (一七八八) | 一基 | 正福寺(西市) |
天明八年 | (一七八八) | 二基 | 花岡八幡宮 |
寛政元年 | (一七八九) | 六基 | 花岡八幡宮 |

妙法寺灯籠 享保二年(一七一七)

松尾八幡宮灯籠 享保十五年(一七三〇)

花岡八幡宮灯籠 寛保三年(一七四三)

降松神社 若宮灯籠 寛延元年(一七四八)

降松神社 若宮灯籠 宝暦二年(一七五二)
次に市内にはとかく話題の和田利右衛門の奉納の灯籠が七基、石段一ケ所があるので記しておきたい。所在地は、次の通りである。
降松神社(若宮)灯籠一基・嘉永元年(一八四八)
(但し破損)
浄蓮寺灯籠二基・文久元年(一八六一)
周慶寺本堂前石段・文久元年(一八六一)
後野社大海町灯籠二基・文久元年(一八六一)
(但し上部欠失)
平田金毘羅社灯籠二基(相本高義氏証言現在は不在)

西蓮寺石灯籠 文久元年(一八六一) 和田利右衛門奉納

後野社 文久元年(一八六一) 右端灯籠(上部欠) 和田利右衛門奉納

周慶寺本堂石段 文久元年(一八六一) 和田利右衛門奉納
和田利右衛門は徳山藩士で、異本天保三壬辰三月改めの『御家頼分限帳』によると、弓持役で一五石取である。普通六尺型の春日灯籠は、旧藩時代石工一ケ月分の労銀と言われている。当時、石工は職人中最高給であり、灯籠は必ず灯明代をあわせて奉納する慣習があったので、三十ケ所にのぼる社寺への奉納は、いかにも不釣合である。市内の石造物を調査しても江戸時代に於ける社寺への奉納者は、すべて庄屋・大庄屋級の富豪家である。徳山に近いためもあろうが、和田利右衛門は徳山の次に下松に多く建立しているので『徳山地方史研究』第九号(一九八八)から清木素先生の研究を抜粋して紹介しよう。
和田利右衛門平盛房が寄進した鳥居や灯籠・水船・宝塔等が下松から防府までの各地に残っていることは知られていた。今度山口の八坂神社にも大灯籠が寄進されていたことが分かった。
これらは皆刻んだ文字は深いのは三cmもあり歴然としたものが多く今から三百年四百年は残存するに違いない。灯籠も権現町の熊野神社・下松の浄蓮寺・防府の天満宮・山口の八坂神社のものは、二・八mにも及び、鳥居になると高いものは三・四mにも達するのもあり、一五石位の士の身分でよくも、三〇個所にのぼる神社やお寺に、一基だけでもかなりの費用がかかる石造物を郷里の徳山のみならず東は周東町から下松・新南陽・防府・山口へと寄進を続けていった事については一つの物語が伝わってくる。
和田家に縁の近い方の談話を「新南陽市の民話と伝説」の中から述べてみよう。
『ある夜、虚無僧姿の旅人が一夜の宿を乞うたために泊めたが、この男が大金を持っているのに目をつけ、利右衛門は男を殺して金を奪い、死体を庭に埋めた。
以来、利右衛門の屋敷からは真夜中、異様なうめき声が聞こえ、次々とこの家に不幸が続き始めて妻は発狂し「このうらみははらさずにはおかぬ」「きっと殺してやる」などあらぬことを口走り、ついに狂い死にした。そして子供は疫病で死に、虚無僧を埋めた庭は雨が降っても不思議に土がぬれなかったという。
利右衛門は、このうわさが殿様の耳に入り、ついに免職になってしまい、自宅に閉じこもっていたが、良心の痛みに耐えかねて高僧を訪ね自分の罪と苦悩を打ち明けたところ高僧は「私財を投出して神社やお寺に寄進を続けるが良い。そうすればきっと気も晴れて救われるだろう」と教えられ、利右衛門は前非を悔い、次々にお寺やお宮に寄進を続けていったという。』
こうして現在残っているものについて、年代別にみると文政(一)弘化(一)嘉永(六)安政(八)万延(一)文久(八)不明(五)となり、地区別では徳山(一九)下松(四)新南陽(三)防府(二)山口(一)高森(一)となり、種類別に見ると灯籠(一五)鳥居(四)水船(六)石段(一)玉垣(一)宝塔(一)柱(一)幟立(一)となっている。今後まだまだ判明するかも知れない。
内容的には鳥居に「神のます鳥居を入ればこの身より、日月の宮と安らかにすむ」と深く刻みこまれているのもある。灯籠に「龍蛇御燭、誠意感道、日月麗天、徳暉照融」と神徳を称えた銘文が刻まれた珍らしいものもある。日限地蔵尊の灯籠もあり今猶民間信仰の火が続けられているのもある。大般若経の写経として一字一石が埋められてその上に宝塔が建てられているのもある。
とくに福川の嶽山の鳥居などは山の中腹までこの巨大な石材を運び上げるのはかなりの費用がかかったと思われる。
結局、文政二年(一八一九)から文久二年(一八六二)まで四四年間に亘って延々と寄進し続けたことになるが、悔い改められた罪ほど美しいものはないとも言われるけれど利右衛門の執念にも似た思いが偲ばれてならない。刻字にしても下松の周慶寺の石段の分は「徳山・和田盛房」と簡略化しているが、その外はいずれも「和田利右衛門平盛房」と深々と丁寧に刻んでいる。

周慶寺本堂石段側石(右) 文久元年(一八六一) [徳山]和田盛房

同上(左)
武の神としての遠石八幡宮・上野八幡宮・山崎八幡宮・若宮八幡宮や文の神としての若宮天神・福田寺前の的崎天満宮・防府天満宮・高森天神等に寄進していることは、本人自身の八幡宮・天満宮への信仰の深かったことがうかがわれるのみでなく、徳山地方でもその様な信仰が盛であったとも思われる。
高森から山口までも自ら足を運びながら、石造物献納の心配りも並大抵ではなかったに違いない。
交通状況も不便であった当時を思い、個人で前非を悔いながら、人のいのちの尊厳観に立ち、生まれ出たことの真の価値に徹して、よくも後半生を四〇数年の長きに亘って懺悔の道を一すじに歩み通した彼の信仰の強烈さに今更ながら驚嘆の外はない。(『徳山地方史研究』第九号清木素)